やさしさの自問自答

住人

「やさしさって、なんだろう?」
ある冬の日の昼下がり。コーヒーを飲みながら生まれた、ふとした疑問。
「やさしさ」を感じたシーンから始まって、
いろんな「やさしさ」のカテゴリー分けまで。
私にとっての「やさしさ」とは何なのか。
「やさしさ」について考える山吹の自問自答を
「対談インタビュー形式」でまとめてみました。


ー本日は、自問自答ではありますが、対談よろしくおねがいします。「やさしさ」…ずっと身近にあった存在なのに、話そうと思うとどこからどう話せばいいか分からないテーマですよね。ちょっと聞いてみたいんですが、山吹さんは最近「やさしさ」を感じたシーンってありましたか?

「やさしさ」を感じたシーンですか。そういえばこの前、実家で寝る前に祖母から「湯たんぽ、作っておいたでね」と声をかけられた時に「シンプルに、やさしいな」と感じました。

ーなるほど。ちょっと気になったのですが、「シンプルにやさしい」という表現には何か意図があるんですか。

私は「やさしさ」の中にも、「シンプルで分かりやすい」ものと「複雑で分かりにくい」ものがあるんじゃないかなと思っていまして。祖母の例で言うと、前者ですね。ストレートな気づかいとしての「やさしさ」。「やさしさ」って、たぶん、他にもいろいろなカテゴリーがあると思っています。

「やさしさ」のカテゴリー、いろいろと考えてみるのも面白そうですね。そもそも、「やさしさ」の定義を辞書で調べると「他人に対して思いやりがある」「情がこまやかである」「性質がすなおで、しとやかである」「穏和で、好ましい感じである」などが出てきます。「やさしさ」とは、一つの定義ではくくれない存在なのかもしれませんね。

ですね。漢字も「優しい」だったり「易しい」だったり、英語でも「kind」だったり「gentle」だったりと、国や人によって様々な捉え方があるのが「やさしさ」のようです。ただ私は、そうした様々な「やさしさ」がある中でも、どんな「やさしさ」を選んでいくかが大事なのではないかとも思います。そこには、時と場合によって選ぶべき「やさしさ」や、選ばない方がいい「やさしさ」もあるような気がしています。そちらの山吹さんなりに、「やさしさ」のカテゴリーについて考えるところはありますか?

ーそうですね…。「やさしさ」の中でも、例えば「気づかうやさしさ」というカテゴリーは分かりやすい部類に入ると思います。ただ「気づかう」時に、「ありがとう」と言われることもあるし、「ほっといて」と言われることもある。そういうことを考えると、時には「ほっておくやさしさ」も必要なのかなと思います。つまり、「気づかう」ことはケースバイケースで扱わないと「やさしさ」にならないことがある。

なるほど。そうなると「やさしさ=気づかい」というように、単純に「やさしさ」は表せないということですね。

ーちなみに、そちらの山吹さんなりにも、「やさしさ」のカテゴリーについて思い当たるものはありますか。

私なりに考えると、カテゴリーとして「おおらかなやさしさ」はありそうです。「やさしい人」ってどんな人なのかを考えた時に、「おおらかな人」が多いのかなと。ただこれも、おおらかに構えて「大丈夫だよ」と言うことで安心する人もいるし、おおらかすぎて「大丈夫なの?」と心配になる人もいます。これも「気づかうやさしさ」と同じで、場合によっては「おおらかさ」が「やさしさ」にならない時があるんじゃないかなと。

ー同じ「やさしさ」でも時と場合によって形を変えますよね。きっと、心のどこかに、みんなそれぞれの「やさしさ」が存在していても、いつ だれが だれに どこで どう あつかうかによって、それが「やさしさのようなもの」になってしまったり、時には逆に「きびしさ」にも成りうることがありますよね。

「やさしさ」が「きびしさ」になるというのは、何故なんでしょうね。これに関連して言うと、私は「きびしいやさしさ」もあるんじゃないかと思っていて。

「きびしいやさしさ」

これは、「気づかうやさしさ」や「おおらかなやさしさ」と違って、分かりにくい「やさしさ」です。親が子供を叱るときのことをイメージしてもらうと分かりやすいのですが、単なる「きびしさ」ではなく、その奥に愛情があれば、それは「きびしいやさしさ」なのかなと。

ーなるほど。だとすると、多分この「きびしいやさしさ」には「きびしさの予防接種」的な一面がありますよね。きびしいことが溢れる世の中で生きてもらうために、意図的に「きびしさ」を摂取させていく。そういう「やさしさ」もあるということですよね。

そうですね。この「きびしいやさしさ」というのは、奥に潜む愛情を理解できないと単なる「きびしさ」として映ってしまうのが難しいところです。振り返ると「あれは、きびしいフリをしたやさしさだったんだ」と気付くこともありますが、そこには確かなタイムラグがあります。だから、「きびしいやさしさ」を持つためには「一時は嫌われてもいい、それも相手のためならば」と思える確固たる勇気と深い愛情が必要になりそうです。

ーそういうことを踏まえると、「きびしいやさしさ」を使える方々は本当にすごいと思います。しかも、「きびしいやさしさ」って分かりにくい上に、能動的な「やさしさ」ですよね。「ほっておくやさしさ」や「おおらかなやさしさ」に比べて、かなりエネルギーが必要になりそうです。

確かに。それは新しい発見ですね。「やさしさ」の中にも、能動的なものと、逆に受動的なものがあるという。これまでに出てきた「やさしさ」を、「分かりやすい⇔分かりにくい」の二極と「能動的⇔受動的」の二極でカテゴリー分けしてみると、こんな図になりそうです。

ーなるほど。こうやってカテゴリー分けしてみると、自分の「やさしさ」がどんなものかを比較して捉えられていいですね。それに、こうして分布を見える化することで、これまで特定の「やさしさ」を使っていた人の中に「やさしさを使い分ける」という発想が生まれるかもしれませんね。

今まで見えていなかった「やさしさ」の使い方を知るというのは、とても大事なことのように思います。おそらくですが、私を含む多くの人達が「やさしさ」をもてあましていると思うんです。「やさしさ」は心のどこかに確かにあるのだけど、どう使ったらいいのか分からなくてフワフワしている。そんな時に、この図が「やさしさ」の使い方として参考になればいいですね。

ーそうですね。でも、まずは、もてあませるだけの「やさしさ」を持っておくのも大事なことだと思います。ぼーっとしていると、「やさしさ」は日常の中でみるみるうちに枯渇していきますからね。せめて私も、「やさしさ」の使い方を知りたいと思えるだけの「もてあますやさしさ」は持っておきたいです。

なるほど。その、そもそもの「やさしさ」があるかどうかを語るときに、確認しておきたいことがありまして。それは、自分が世の中を「やさしい人」と「やさしくない人」の2種類で分けて考えていないか、ということです。それぞれが思う「やさしさ」が形を変えて生きているだけで、一見して「やさしくない人」の中にも「やさしさ」があることに想いを馳せてみる。ある人の一面だけを切り取って、誰かが即座に「あの人は、やさしくない」とくくってしまう時に、なんだかなぁと思うときがあるからです。

ーそれは、さっき話した「分かりやすい⇔分かりにくい」から見た「やさしさ」の捉え方でもありますね。分かりにくくても、それは相手なりの「やさしさ」なのかもしれない。そうやって想像力を働かせて相手の考えを自分なりに考えてみることも、きっと「やさしさ」なんだと思います。

そうですね。「やさしさ」を考える、ということは「考えるやさしさ」とも言い換えられそうです。…ちょっと難解になってきましたね。そろそろ対談時間のリミットも近づいてきたので、まとめに入りたいと思うのですが、いやはや話題は尽きませんね。

ー「やさしさ」については探求できそうなテーマがたくさん転がっていますからね。『「つよさ」と「やさしさ」はどう繋がっているのだろう』とか、『「やさしいきびしさ」の逆、「きびしいやさしさ」って何だろう』とか。とりあえず今回は、こうして「やさしさ」について自分なりに考えておくことが、一つの「やさしさ」なのだという結論でまとめておきましょう。

ですね。今回の対談で、「やさしさ」の正体が、ちょっとだけ分かったようで、一生かけても分からないような気もしてきました。ただ、「やさしさのカテゴリー」を使い分けることと、そのために「もてあますやさしさ」「考えるやさしさ」をもつことはこれからも大事にしていきたいですね。
山吹さん、本日は対談インタビューありがとうございました。

ーこちらこそ、ありがとうございました。山吹さん、またどこかで。

「やさしさの自問自答」 おわり

山吹

ペンネーム。note→https://note.mu/fukujin 連絡先→yamaoide@gmail.com

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