ヒトリオドリ/バ/トルロワイアル

今月で28歳になりました。オートです。
トップ画像は、ムンクの叫びのあの顔のアイストレーで作った氷です。
28年分の叫びを氷結させてみました。
(おどりばの部屋数とは誓ってなんの関係もありません。)
ブルーハワイ味ではありません。インク味です。飲むとでっかくなったりちっちゃくなったりする、アリスのあのインクです。
試しにおひとつどうぞ…。やめときますか…そうですか…。
三行後に本編です。
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おどりばに入居して3か月経つ。
おどりばって…なんだろう。
おどりばのサイトの下の方には小さく、
「人と人とが想いを共有しあうなかで、自分を深められるような場」 と書いてある。
また、おどりば入居ガイドラインには
「自分のために、ありのままを書いてください」「あなたが、あなたのために、言葉にならない想いをかたちにしてみてください」
「記事のターゲットは「あなた自身」です」とある。
入居前、「なんだろうここ」と思っていた。未知のコンセプトだったから…
ふと我に返って、改めて…なんだろうここ。
書き手として、読み手として、振り返ってみる。
まず書き手として。
「自分」か…
はじめ僕は「自分自身について書く」ということに消極的だった。
僕なんかの話なんかを聞くことなんか、ないだろう誰も。僕の話に需要はない。卑屈である…こじれている…かきまぜすぎて原形をなくした納豆みたいだ…。そんなもの公に晒してどうするんだ?それを恥晒しと呼ぶのでは?…。
「自分のために」
あ…、つまり、僕が読むのか。僕が吐いた言葉を、恥もまとめて僕が回収するということか。オートの嘔吐をオートが回収する…、

おどりばのサイトを覗いたはじめの頃、
「なんかこう、エモーショナルなとこなのかな」という第一印象を受けた。
問いを肯定する。他者に共感する。
なんとなく…自分が立ち入る領域ではない予感がした。
引き返すこともできたけど後ろ髪が引っかかって、タブを閉じずにしばらくとどまっていた。迷い。
そしてワタナベさんの「何者でもない自分について」の記事を読み、いいなと思ったので応募することにした。勢い。
応募することにしたけど、聞かれた項目に悩んだ…
Q「あなたにとってのおどりばとはなんですか」
これ想像力たくましくしないといけないやつだ。
A「階段では見えなかったことが見えてきたり、言葉にできなかったことが引き出されてくるような場」
もう一つ聞かれた。
Q「あなたの「問い」を教えてください」
A「見えないものはなんで見えないのか。どうしたら見えるようになるのか。」
Bamp of Chickenの天体観測聴きすぎた。
おどりばはなぜか僕を受け入れてくれた。その謎は謎のままそっとしとくとして、とにかく27号室で記事を書くことになった。どうしたら「自分のため」になるのかを考えて、僕自身が避けられないテーマを書くことにした。それ自体は恥ずかしいことじゃない。怯んでいたのは、もっとそれ以前に「僕は社会から認識される価値なんてないんじゃないか」という恐怖があったから。
だけど開き直った。ここはネットじゃないか。誰も拘束していない。よほど問題のある内容でなければ、 そっと書き置きしたところで誰に罰せられるわけでもない。そうだ、そんなこと考えるのは自意識過剰の納豆ペースト野郎だ。
少し冷静になったところで、書いてみた。こんなに個人的な内容を外向きに書くのはほぼ初めての試みだった。
「ありのまま」というのが僕にはよくわからない。
1回目「遊星からのXジェンダー」は顕著にエンターテイメント性を志向した。「誰にも読まれなくても…」とうそぶく反面、「折角書くなら読んでもらえなくちゃ意味ない!」という意識がありありだった。そしてちょっと疲れた。なので2回目の「ダンサー・イン・ザ・ジェンダー」は自分に馴染みの深い、内向きに書いてきた表現に近づいた。ザッピングのようにガチャガチャと場面を切り替え、心象に合いそうなイメージを投げ込んでいく。人によっては鬱陶しさを覚えそうな文体。
「ありのまま」が「文章を飾らないこと」であるなら、僕はありのままれやしない。けど「ありのまま」が「言葉にしにくい実感を、それでも言葉によって表現しようとすること」なら、その目的を達成するための手段として、僕は装飾的であれ俗物的であれ、エトセトラ問わず文章を模索したい。これまで自然体に生きてこれなかったんだから…待て、「自然体」ってなんだ。みんな武装したり擬態したりして日常をサバイバルしてるんじゃないのか?みんなのことはさておき、これが僕のありのままだと認めよう。開き直ってやるぜ。 と見得を切ってみるけど、でっでもいちおう読む人に吐き気を催させない程度の配慮はしてるつもり……って名前が”嘔吐”やないかい!
This isセルフ墓穴ッコミ、ヒトリオドリバトロワ。
けれどこうして外に向かって言葉にすること、記事を書くことは、ある死角から自分を知ることだった。その機会をくれたおどりばに、感謝したいと思う。
書いた記事にコメントをもらったときは、過言じゃなしに激震が走った。承認されることにビビった。僕の脳の報酬系はジュワッ…っと音を立てて蒸発するところだった。けどゾンビなのでもともと腐敗してることに気付き、平静を取り戻した。

ここからは読み手として。
もうひとつのコンセプト、「 人と人とが想いを共有しあう 」について。
…そう聞いて思い浮かぶのは「共感」だ。
おどりばの記事に共感してコメントを残す。共感しても、コメントにならないこともある。共感しないこともある。
―――と何気なく使っているこの「共感」って、そもそもなんなのか。
一緒におやきを食べてて「えっ、これまずくない?」「だよね…」というのも共感、恋愛相談を受けてて「フラれちゃって、辛いの」「だよね…」というのも共感。けど失恋の傷心にたいしておやきまずいのと同じトーンで「だよね…(笑)」と頷かれたらちょっと、いやすごく、違和感しないだろうか。
似たバックグラウンドを共有しているなら「わかる」は便利だ。わかれば話は早いから。いっぽう、あまりよく知らない人から「わかる、わかる」と接近してこられると、なかば本能的に引いてしまうのではないか。
それはなぜか。経験には差があるから。同じおやきを食べていても、 味覚の個人差でうまいまずいは判定が分かれるだろう。でも同じおやきが温かいとか皮がモチモチだとか、そんなレベルなら大きくはずれることなく同感できそうだ。
しかし恋愛は、少なくともおやきよりはるかに複雑な経験だ。恋人のまなざしが温かいとかほっぺがモチモチだとか、はいはいはいそうですか、いや知らんがな、そうじゃなくてもっと人それぞれ異なる経験をしているはずで…なんの話?
人と人の間には複雑で多様な経験の差がある。
自分とは違う他者を「わかる」には、自分の経験を振り返って参照するだけではとても足りない。けど想像を働かせて、他者の経験を咀嚼しようと、理解しようとすることはできる。「わかろうとする」のが「共感」のはじまりかもしれない。未然形にとどまるのは、話した側のほうに「(相手におおよそ)伝わった」というなにがしかの感触が得られて初めて、終止形の「わかる」が成立するんじゃないかと思うから。
あ~頭回らなくなってきた。。モチモチおやき(あんこ)食べたい
じゃぁまぁ実際どういうときに自分は共感してんのかなぁと振り返ってみると、対面より活字を介しての場合のほうが多いかもしれない。それは僕があまり人と会わないからじゃないかっていうと、その通りです。
活字が相手だと、そこにある言葉とサシで向き合うことになる。肉体的な修飾(表情筋や声音)はそこにない。僕も応じなくていい。
わからないなーと思いながらも読み進めていくうちにわかってくる、という経験がある。そこに書き表された考えのどこかに打たれたのかもしれないし、読んでる自分のほうでなにか解釈したのかもしれない。相互作用するだけの時間をかけられる、気持ちの余裕をもてる、活字の距離感がそれを可能にする。
僕の「共感」のイメージのひとつは、離れたところでするもの…なのかもしれない。
いっぽう省エネで「わかる」を使うのも「わかる」。親近感を増すウォーミングアップみたいなもの。接近戦の「わかる、わかる」 が入り口になることがあるのも、否定はしない。だけど多用されると、不安になる…
「なにがこわいの?
そんなしちめんどくさい<理解のプロセス>なんか、スキップできるんだよ。
ほら、人類はわかりあえる…無条件に…安心感に包まれて…
わかりあえば、気持ちよくなれる…わかりあいたいでしょ……?
ただうなずくだけ…なにも考えなくていい…」
は、はひ…わかりあひたひです…
これが… 無償の…… 愛………
…………ハッ、
なんだ御冷ミァハの幻影か
もうちょっとで連れてかれるとこだった
ふーあぶねーあぶねー
気を取り直して、なんだっけ。ああ、モチモチほっぺ。じゃない、何が不安か。僕がこわいのは雪見大福、じゃなくて、<共感の行く先>、がこわい。
共感はすごい。時空を超えて、他者を理解することができるかもしれない手段。
でも…その手段が目的になってしまったら?
Q「なぜ理解したいか」
A(未知の不安から逃れたいから)
もしそうなら。
他者を決め付けることも、思い込むことも…
作り上げることだって、存在しないとすることだって…
「あなたは”そんな人”―――/なんだね/じゃないでしょ」
実体=あなたそのもの―――とのズレは関係なく、目的は達成される。
「完全にわかりあうことはできないから、わかったふりをしあおう」
見くびるという許容、馴れあうという受容、
共感至上主義「ただただ安心したいがためになにはさておきとりあえずわかったふりをする」それは、優しさの皮を被った乱暴なんじゃないか。
「地獄への道は善意で舗装されている」ということわざがある。
まやかしの安心と、根源的な不安。
「レタス1個分の食物繊維」と、「すご~、え…けど待って、レタスってそもそもそんなに食物繊維豊富だっけ?…キャベツは?」
即席理解の弊害。
「オレオレ、俺だよばあちゃん」「あぁ…?あぁサトシかいね」
おばあちゃん違う! そいつはサトシじゃないよ!!!
良し悪しの判断が、捩じれていく、麻痺していく。抵抗感に捕まれる…考え続けるから不安なのか。だとしたら安心とは、考えなくてよくなることなのか。
笑ってたら幸せじゃんみたいな、セックスしたら恋人じゃんみたいな?
サトシ、それほんと?
その声が呪いに聞こえるのは、僕が歪んでいるからかもしれない。ゾンビだし。パラノイア気味なのかもしれない。カフカシンドロームだし。(いまでっちあげた)
僕は自分の中にある漠然とした、それでいて根深い抵抗感を、ただ自己弁護しているだけなのか。懐疑のふるいを何重にもかけて、信頼性を追求しようとかそういう。そして狷介な独居老人となって出がらしを啜る末路なんだろうか。
問いの沼に溺れそうなので今月はこのあたりにして、来月もう少し掘り下げ……られたら書こうと思います。つかれたので曖昧な予告にとどめます。つかれるまで書くって相当暇なのかというと、その通りかもしれないけど、クソニートとか侮辱するとエクソシスト(1973)になって緑色のアレを噴射しちゃうよ。嘔吐だけに(もういい)
おっとこれはお見苦しいところを、失礼しました。
ここまで読んでくれたあなたに、点滴ネルドリップでじっくりねっとり淹れた”有閑の極みコーヒー”と、スーパーでよく売ってる”米国産上新粉使用のお団子(こしあん)”を進呈します。
27号室の作業風景とともにお楽しみください。
オートさんのサムネイル変わりましたね!
ムンクの『叫び』もかわいいし、もののけ姫のこだまみたいで、いっぱいいて可愛いです。こういうの好きです。
わたしも軽く聞いただけで「わかるぅ~」って言われるのが苦手で、でももしかしたらわたしも、言っちゃってるのかなって思います。
そして実際、「これ共感したからコメントしたい…!」って思っても、書いてるうちに「え、このコメント的を射てないなー…申し訳ないから消そう…ごめん…」となることも多いです…。
オートさんが書かれた文章を、一番最初の時から何度も何度も読み返してて、「どんな人なんだろうな」「次はどんな文章を書かれるのかな」って、楽しみにしていました。わたしには無い感性で、わたしには無い文才でオートさんが紡ぐ文章、オートさんのお人柄、好きだし、もっと知りたい楽しみ!って思うんです。
わたしは根気が無いのでひたすら穴を開ける…って作業は出来なさそうなので、穴をあけて溜まったちっちゃい四角が溜まっていく様子を見る係と、それを捨てる係に立候補します。楽しそう。
カフカは高校生の時、『窓』しか読んだことないのですが衝撃的でした。
わたしもあんこのおやき食べたいし、オートさんのコーヒー飲みたいです。
そして、28歳のお誕生日おめでとうございます!おどりばで、オートさんと出会えて、オートさんの文を拝読できて、わたしは嬉しいです。オートさんにとって、幸せいっぱいの1年になりますように!
ゆうりさん!
お返事が遅くなってしまってごめんなさい;;更新日当日にコメントをいただいてうれしかったです…!
ムンクの叫び、こだまと似てますよね。かわいいという反応は予想してませんでした…不意打ちのよろこび!叫びたちが照れうごめいています。お祝いの言葉も、ありがとうございます。
そうなんですよね。僕も「インスタントわかる」されるの苦手なのに、そこまで悪気なく「コンビニエンスうなずき」しちゃってるかも……とまた共感しちゃってる。笑
ゆうりさんはコメントを自制されることもあるんですね。埋もれてしまっていたかもしれない言葉を届けてくれて、ありがとうございます。
おどりばって、コメント書きたいけど未だに書けてない記事があるんですよね…あの、ゆうりさんの記事も拝読しています…
息をするように自分を直視されている様子は、深海魚の僕からすると驚異的です…伝わりますかこれ…
僕はコメントを書き出すのに時間がかかって…そして自分の記事に時間をかけすぎで……
だからゆうりさんが僕の文章を何度も読み返してくれている、なんてうれしすぎます(泣)浮かばれる。。。
僕はたぶん子供を遺せないので、なんらかの形で少しでも人の記憶に残りたいなと、漠然と望んでいます。
文才はないけど文災ならなんとか!(?)
カフカの『窓』、探して読んでみます!僕はだいぶ昔に『変身』を読んだけどうろ覚え…『城』の映画がありますよね。『失踪者』はたまたま演劇で観て、総毛立ちました。
27号室の作業員に立候補してくださりありがとうございます。即決採用です。
まかないにおやきとコーヒー付きます!どうぞおくつろぎください。
あ!それだ!『窓』じゃない!『変身』だ!!
『城』と『失踪者』も読んでみますね!
オートさんからのコメントのお返事まで嬉しいのです(照)
即決採用嬉しすぎます!おやきとコーヒーをモチベーションに、見守る係と四角を捨てる係、頑張ります!
オートさんの記事は毎回ゴリゴリに削られながら読むのですが、今回はゴリゴリという言葉が可愛く思えるほどに、削られ、ボロボロになり、悶えました。
その表情と来たらラオコーン像にも引けを取らないことでしょう。その苦悶をわざわざコメント欄に書き残すなんて、もはや正気の沙汰ではありませんがそれでも私はこの記事には立ち向かわねばならぬと直感しましたので、振り絞ってコメントをします。
「セルフ嘔吐メーション」にくすくすさせられたのは、きっと罠だったのかもしれません。
その後に紡がれた、
>>「ありのまま」が「文章を飾らないこと」であるなら、僕はありのままれやしない。けど「ありのまま」が「言葉にしにくい実感を、それでも言葉によって表現しようとすること」なら、その目的を達成するための手段として、僕は装飾的であれ俗物的であれ、エトセトラ問わず文章を模索したい。
ありのままとは文章を飾らないことだと信じて疑わなかった自分。でも、装飾的なオートさんの文章に嫉妬と羨望を無意識に抱いていました。「ありのまま」というものへの捉え方が根本から違ったのだと剣先を突きつけられた気分です、いや、突きつけただけでなく、左手を腕からごっそり持っていかれた気分です。
ならば結構私は右手一本でいきましょう。そう意気込んで後半を読み進めたのは、間違いでした。
ゆっくり、一本一本、丁寧に指が折られていく…そのような感覚に陥りました。
>>Q「なぜ理解したいか」A(未知の不安から逃れたいから)
▷▶︎ソウカモシレナイ…(ポキッ)
>>「完全にわかりあうことはできないから、わかったふりをしあおう」
▷▶︎ソウダ…(ポキッ)
>>「ただただ安心したいがためになにはさておきとりあえずわかったふりをする」
▷▶︎ソウダ…ワカッタフリヲ、、、(ポキッ)
>>それは、優しさの皮を被った乱暴なんじゃないか。
▷▶︎……(ポキッ)
もういっそ心臓をひと突きしてくれればと思わずにはいられない。
優しさの皮を被った乱暴。ああ、それだと思った。
オートさんの記事に、オートさんに、化けの皮を剥がされた気分(別に化けてるつもりはなかったけど)。
私は、暴力的な何かを、傲慢な何かを、優しさというオブラートに包んでる。
気付いてしまった、気付かれてしまった、羞恥、苦悶、絶望…色んな感情が混ざり合って、ラオコーンの完成。
もう、言葉が出ない。左腕と右手の指4本失って、ライフはほぼゼロに等しい。
それでも指一本分の気力で最後まで書く。
オートさんの記事で見たくなかった、知りたくなかった自分の姿を思い知らされた。
恥ずかしさや苦しさ、そして悔しさでいっぱいだ。唇を噛み締めすぎて血が出そう。
「でも、オートさんのこの記事読めてよかった。どんな自分でも知ることができて良かった」と優等生の私がいう。
「読みたくなかった!知りたくなかった!」と剥き出しの私が叫ぶ。
色んなものを削ぎ落とされ、残ったも2つの相反する私はドロドロ溶けて混ざりはじめた。
もはやなにがなんだかわからない。
それでも私はオートさんに、オートさんの記事に向き合い…違うね、喰らいついていきたい。
文体も内容も何もかもがぐちゃぐちゃなへんなコメントでごめんなさい。
読んでてゴリゴリに、ボロボロになるのに、でも、何度も読んでしまう、また読みたくなってしまう、次の更新が楽しみで仕方ない。そう、私はそれでもオートさんの記事が好きだ。好きなのだ。
しえさん、
お返事がとても遅くなってしまい、ごめんなさい。
しえさんのコメントを読んで。しえさんが苦悶を言葉にしてくれて。
しえさんのなかで起きたことは、僕を驚かせ、喜ばせ、そして怖れさせました。
僕はこの記事で、触れるに至らなかったことがあります。
いつか掘り下げられたら、掘り下げよう…と、先送りにしている内容。
いつかは避けて通れない…けど、それを想像するだけでしんどい。
でもしえさんのコメントを読んで、続きを書けそうな気がしました。
そう思えたのがうれしい、けどこわい。
おどりばをスキップして、死刑台のエレベーターに乗ってしまったような。
オブラート脱皮したい。現実に触れたい。それが知りたくないことでも。
それは苦しみを嗜好しているんじゃなくて(Mじゃないと思ってる)
言葉がとまるところまで溶かして、何が残るのか見たいから。
むきだして、つきつめて、
ばらばら球体関節人形になって、しえさんのどろどろラオコーンと、一緒に踊りたい。
苦しいけど楽しい。しえさんがそう感じてくれたこと…
どうしたら伝わるのか、言葉の無力さを覚えるほど、うれしくて、どうしようもないです。
ヒトリオドリバじゃなかった。