Lost in Frustration

住人

今までおどりばで書いた記事を、軽く解説を交えつつ振り返りたいと思います。
映画で言うと特典のコメンタリーです。
お気づきの方もいるかと思いますが、記事のタイトルについては全て実在の映画からもじっていました。その元ネタとなったタイトルも()に記しておきます。

7月 遊星からのジェンダーX(遊星からの物体X)
8月 ダンサー・イン・ザ・ジェンダー(ダンサー・イン・ザ・ダーク)

自分のセクシュアリティについて、小・中学校時代を回想しました。
なぜこのテーマにしたのか。
ジェンダークリニックのカウンセリングでは、「自分史」を書くそうです。
改めて回想することで、自分の性について理解が深まるんじゃないか。
そして開示することで自己紹介の練習にもなるかも、と思ったのがきっかけです。
幼少期~思春期の主観に焦点を当てました。

ところで僕は、プロフィールに「Xジェンダー」と書いています。
ですが小中学校の内容を見ると、「FTM」(Female To Male…生物学的性別が女性で、性の自己意識が男性)の印象が強いです。
当時はそう自覚していましたが、現在はXを自認しています。
Xジェンダーという概念は幅広く、そのありようも様々です。
僕の場合、幼い頃から男性性の性自認が強かったものの、身体的性別の移行が困難な状況にあり、女性としての社会生活を免れませんでした。
その環境において、「シスジェンダー(=身体と心の性が一致している)男性」の男性性とは質が異なったように感じています。
例えば”いわゆる男社会”における文化コード、競争心や仲間意識などが薄い。
僕の生物学的性別は検査の結果、内外生殖器・性染色体ともに典型的女性なので、女性ホルモンの影響を強く受けていることもその差に関わります。

社会通念上の男女二元のジャッジに違和感を覚えるのは、なにも性的少数者に限ったことではなく、誰しも経験のあることだと思います。
化粧に抵抗のある女性が”女らしさ”に縛られたり、美容に関心のある男性が”女々しさ”を気にしてしまったり。
いまだに回答者に「男・女」のどちらかに〇させるアンケート用紙が多いのですが、美術館や映画館の来場者の統計を「男女別」でとることにどんな意味があるのか。「女性が好む作風」でつくった次回作のポスターに、「女性に大人気!」というシールを貼り付けるため?
それはどの女性のためになるのか。
大衆を操作・抑圧・排除するには大雑把な括りが便利です。個を認めるのではなく、 個を潰し、規範に沿って成型する。
ですがジェンダー・フリーが浸透するにつれ、こうした形容詞の使われ方は自然淘汰されていくと思います。

「…えーと、ちょっと待って…Xの性自認の話に戻っていい?
シスジェンダーでも典型的な性のあり方に違和感をもつことがあるのなら、 それならほぼみんなXジェンダーということにならない?Xとシスの境界はどこ?」
いい質問です。
僕の考えでは、「女性/男性のラベリングを甘受できるか、否か」だと思います。
例えば僕の場合。外で知らない人から「お姉さん」「お嬢さん」と声をかけられたら(ピクッ)と硬直して、(なんやこいつ)と眉をひそめます。
映画館の窓口で「今日はレディースデーなので割引しときますね」と言われたら「はぁ…(うわっ…でも安くなるなら…いやでもレディーじゃねぇし!)…どうも…」とぎこちなくなります。僕と男子(に見える人)と女子(に見える人)の3人でいるときに、その男子から「いや~、僕のこの状況、”両手に花”って感じですねぇ~」と言われたら、 (は?笑 おい、)コルチゾールレベル急上昇、振り向いて「あ、僕” 花” じゃないんで」と突っ込みます。
まぁそんな感じで、「女性」とラベリングされる場面―本当に些細なやりとりでも―にいちいち、ちくいちピクピクしてしまって受け容れ難さを味わいます。
つくづく感じるのは、この人たちは当人の「服装」などの性表現は無視して、身体的特徴「顔」などで性別を判断しているのだ…しかもそれを言葉に出して当人に伝えることに躊躇さえないのだ…ということです。知識以前にセンスを疑います。
いっぽう、「オート君」と君付けされるのはうれしい。なかなかされないけど。「かっこいい」と言われるのもうれしい。言われても年に1,2回くらいだけど。

Xとはようするに「その他」です。
それぞれの性自認のあり方を包括する概念です。
なので僕が答えるXのあり方は、僕固有のものであり、ほかのXにとってはこの限りではありません。具体的なあり方、違和感の生じ方はその人自身から語られないと知りようがない。ただ共通するのは、男女どちらかに扱われることの抵抗感が強く、Xを自認する…というところでしょうか。

このテーマで書いた内容から、よけいに犠牲者めいた印象を感じられたとしたら、すみません。その意図はなかったのですが、おどりばの空気を読んでいたら調整圧が働いて、私的な文章にならざるをえませんでした。
どのマイノリティにとっても、切実に必要となるのは医療の進歩、社会的保障や制度、平等な機会…といった直接の対策だと思います。
感情は動機になりうるけど、感情自体が目的と化して消耗するのはどうかと思います。 「感動ポルノ」がポルノなのは、同情と礼賛で感動欲を満たすために当事者像を固定してしまうところです。
固定化のどん詰まりから脱するために、正しい知識が役立ちます。
個人的にはいま生物学に関心があります。脳の性差(脳科学/解剖学)や性染色体(遺伝学)、性ホルモン(内分泌学)……
セクシュアリティがー、とか話してるわりに、このあたり無知すぎると気付いたからです。
性分化疾患や人間以外の動植物の性など、生物学的性=セックスについて知ることは、社会的・文化的性=ジェンダーを考えるうえでも重要になると思います。


9月 ヒトリオドリ/バ/トルロワイアル(バトル・ロワイアル)

この回ではおどりばという場について問いました。
…問おうとして、失敗しました。
記事の趣旨は「ありのまま」や「共感」にたいする懐疑、でした。
他の人は考えたくないことかも。不快感を与えるだけかも。だけど書かないのも自分を欺くようだし…と悩んだ挙句、バランスを取ろうとして、ふざけました。
笑わせてガードを外そうとしました。けれど残念なことに、降ってきたのは苦笑と失笑の神様でした。
結果、非常に読みづらい文章となりました…

最後に貼った動画Hole punchの日本語訳を掲載します↓

お前は何でもない
誰もお前のことを好きじゃない
お前は醜い
お前は無価値
お前は重要じゃない
もしお前が死んでも誰も気付かない

穴を開け続けろ


………

…ひどいことが書いてあります。
僕にとっては懐かしい響きです。
むかしよくこんな罵声を浴びせかけられていました。
僕がおどりばに「立ち入ってはいけない」と感じたのは、自分のもつ攻撃性や毒性がこの<聖域>を侵してしまうのではないか、という危険を感じたからです。
問いかけの失敗から、問いの出所に遡ろうと試みたのが

10月 2019年宇宙羊の旅(2001年宇宙の旅)

でした。
過去の地獄を追体験して転生を試みようとしたら時空がねじれて、Amazonのほしいものリストを開陳していました。あれ?
自分はなぜおどりばを問おうとしたのか。
自分のもつ攻撃性とはなにか。
トラウマを差し引いたときに残るのはどんな自分か。
そうしてメタ問いを進めていった後に生まれたのは、「自己肯定感」についての問いでした。

11月 誰も見てない(誰も知らない)

「肯定」…積極的に意義を認めること 「否定」…非として認めないこと
自己を振り返ってみて、これが自己か~と「認識」はしたものの、「肯定」したという感覚はありませんでした。それはただそこに写し出されているだけでした。
肯定や否定の力が離れて、原形に戻ったゴムボール。

記事の終わりで触れているバイオテクノロジー云々は、アボリショニスト・プロジェクトの話です。僕の中では映画「ハーモニー」を観てからずっと考えている「苦痛にたいする革命」がここにつながっています。
最後、記事のタイトルと画像でオチを付けようとして「未来はまだ、誰も見てない」と書きましたが、先日宇宙物理学の先生(関西弁でヒョウ柄ジャージ)とお話する機会があり、「理論的には過去にも未来にも行ける。あなたがいつ死ぬのかも決まっている」と聞きました。超面白そうな話じゃないですか…?自己肯定感とかなんとか、クソどうでもよくなりませんか?

12月 Lost in Frustration (Lost in Translation)

おどりばで書いてきた記事を振り返りました。
おどりばでは、書きにくいことこそどうしたら書くことができるのか、腕試しみたいなところがありました。
書けなかったこと。
否定と批判の違い、不道徳な事柄・タブーについて、ルールそのものを問うこと、肯定の濫用と副作用について…
翻訳しようとして失われる言葉
翻訳しようとして失われる不満
表現の不自由。問えなくて、麻痺してく感覚。

「誰かを傷つけてしまうような表現は控えましょう」

考えたくなること。
”誰も傷つかない表現”は可能なのか?
そもそもなぜ傷つけてはならないのか?
「傷ついた人が自由に話せなくなるから」
では、誰も傷つけないために話さなかった人が話す自由は、
保障されずに、どこへ?

「センシティブな内容が含まれている可能性があります」

誰も傷つけることのないマンガ

感動映画の予告編
「家族が…」「恋人が…」「親友が…」―
「事故で…」「病気で…」「絶望して…」―「死んだ」

5本も連続だと―(だよね)
安心して見送れる。安心して泣ける。

感情の美化からの逃避
マスキングにフェティシズムはないんです
陶酔できない、不信の停止ができない、

とろ溶ろ とろ融ろ とろ消る 思考

夢の中では、思考も、過去を思い出すこともできない。
ただ体験と感情があるだけだ。

『睡眠の科学』櫻井武


Are you sleeping or awake?
Time to wake up
Look around and smell the coffee


………………

去年の今頃は… 布団から出られなかった。
紅葉も、雪も、太陽も月も星も、
美しいものはみんな窓の外で流れ去った。触れられなかった。
ずっと気持ちが塞いでいて、心療内科に行った方がいい気がしてたけど、医療費が捻出できないことを理由にして行かなかった。
仕方なく横になったまま、ケーキ屋みたいな名前の禿げたおっさん(モンテーニュ)の籠城日記『エセー』を読んでいた。

冬が明けて…暖かくなって、
ライナスの毛布をかぶったまま、すこしずつ、這いずって…
コーヒーを啜って…
夏は眩しかった
秋も眩しかった

そしていま、おどりばのふちにいる

吹き上げる風が、心地よい

………

おどりばをつくってくれて、僕を受け入れてくれた運営のみなさん、
おどりばを共有できた住人のみなさん、
記事を読んでくれた方、
コメントを書き込んでくれた方、直接伝えてくれた方、
個人的にお話できた方、
哲学カフェを一緒にしてくれる方、
…そして、記事投稿の締切前、英語のチェックや画像編集、僕にはさっぱりわからないHTML編集まで手伝ってくれた彼女、

みなさんに感謝します。

ありがとうございました。








原子番号27の元素はコバルト。
語源はコボルト…ドイツの民間伝承に由来する醜くて邪な妖精。

子供は無垢であり、忘却である。
新しい始まりであり、遊びである。
自らまわる車輪であり、自動運動であり、聖なる肯定である。
そうなのだ、わが兄弟たちよ、
創造の遊びのためには、聖なる肯定が必要なのだ。
精神はここで、自分自身の意志を意志するようになる。
世界を喪失していたものが自分の世界を獲得するのだ。

『ツァラトゥストラはこう語った』ニーチェ




27号室を出て、コボルトは遊びに出かけた。

オート

Xジェンダーのゾンビでコーヒー淹れたがりのカラスラヴァー。

プロフィール

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  1. ニルン

    こんばんは~、読みました。
    オートさんに会って実際おどりばの記事を読んだけど、毎回コメント出来ず(多分いいことを書こうとおもってたんだと)ここまで来てしまいました。
    今となっては私も伊藤計劃が好きで「ハーモニー」が題材の回でコメント書いておけばと、
    あ、あとで書けますね…

    まとまり無くなりましたが、おどりばの記事から離れてしまうのは残念ですが、これからがありますしね

    また会える時伊藤計劃や映画の話したいです。
    あ、コボルトは私ゲーマーなのでよく知ってますよ。

    それではよいお年をお迎えください。

  2. しぶや

    オートへ

    頭の画像すごくいいね。とても好きです。
    アルファベットは意味を含んでいるのかな?

    最終回おつかれさまでした(*^-^*)
    ほんとがんばったねー

    半年間の変遷を思い出しながらオートがおどりばで得たたくさんのものに想いを馳せています。
    エスプリあえて無視の怒濤のスタートから、知性を詩情に載せて語る最終回まで、変態しながら生長していく様をリアルタイムで見ることができてしあわせでした。

    毎月作品を読むたびに「なんでこんなに独特で濃密で楽しいことばを生み出せるんだろ?オートなにもの?」
    驚きとなぜか誇らしさの入り混じった高揚感でひとりニヤニヤしていました。

    ただ生み出すはあまり適切ではないのかなって、いまは思います。
    すべてオートに内在しているものだよね。たぶん。
    そのままだと真っ黒で透明なごった煮スープのようなもの。
    それにかたちを与え、音を与え、言葉を与える。
    その言葉を紡いで編んで文章にする。
    もちろんそれまでのオートの勉強、読書、潜伏、の下支えがあってのものだけど、
    おどりばを通じてオートが得たものはずいぶんと大きくて貴重な、言葉にできるようなできないような○○な気がします。

    あ、すごくエラそうやぁ
    なんかごめんなさい…

    27号室を出たコボルトは
    遊んで休んで
    次はどんな扉を開けるんだろう?

    いまからワクワクしています(´▽`)

    まずはしっかり休んでインプットやね
    本当におつかれさまでした\(^_^ )

                   しぶや

  3. ゆうりゆうり

    さみしくって、呆然としていたら、コメントが遅くなっちゃいました。
    また、会えますよね?
    会えた時は、オートさんが入れてくれたコーヒーを片手に、人生という名のビスケットの缶を摘まみながらお話したいです。
    「誰も傷つけない表現」「誰も傷つかない記事」、わたしには書けない。言葉にしてしまった時点で、受け取り側の解釈になるから、意図せず傷つけてしまうこともありますものね。
    コボルトがふわふわ~って、遊びに行っちゃった、キラキラした軌跡を、ずっと見守っていますね。