虎と馬

※これは、米津玄師さんの新曲のタイトルではありません。
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トラウマ、というものを私はものすごく怖れている。
それは22年と5ヶ月積み重ねてきた経験と、鋭すぎる感受性によるものだと思っている。
感受性が鋭い、と聞くと良いことのように聞こえるかもしれない。確かに悪いことではないと思う。けれど私は知っている。鋭すぎる感受性は、自分の心を刺し殺しかねないということを。
地獄だよ。
誰も何も感じない一瞬に、一人だけ心を殺されそうになるのは。
生きていれば当たり前だしあまりに陳腐な言い方だけれど、今まで苦しいことが沢山あった。重さに違いはあれど、そのすべてを私は、あまりに深く感じすぎてしまった。思い出すと今でも息が出来なくなることも、すぐに舌を噛みきりたくなるようなことも沢山ある。そして次第に私は、何か傷つく事があった時、それに対してというよりむしろ、「これがまたトラウマになってしまったらどうしよう」という不安を強く感じるようになった。
「ああ、この感受性じゃ長くは生きられないな」
とある研究者が、齢40を目前に自ら命を絶った太宰治に向けた言葉だ。この言葉を見た時、ああそうかと思った。
人間は、いくらか心を鈍感にしないと生きていけないんだ。
思えば幼い頃から私は敏感だった。ドラマで人が殴られるシーンを見るとお腹が痛くなったし、新聞で悲しいニュースを見る度に朝から泣いていた。道端で見つけた花について一日中思いを馳せたり、人は死んだらどうなるのかを考えて眠れなくなったりもした。
季節の変わり目に体調を崩していた原因が、今なら少しだけ分かる。あれは死んでいく季節の匂いに、心が耐えられなかったのだと思う。
「あなたは想像力が豊かで優しい子ね」
と、担任の先生は言った。
「あなたはストレスに弱くて心配です」
と、小児科のお医者さんは言った。
「あなたをどう扱ったらいいか分からない」
と、困った顔で母親は言った。
小説を書くようになったのは、心の中で沸騰し続けるどうしようもない感受性を、何とか自分で処理しようとした結果なのかもしれない。きっと私は書く事でしか、生き延びることが出来なかったのだと思う。私はあらゆる言葉を使い、物語を書くことで、感受性を飼い慣らそうとした。
それでも、傷つくことからは逃れられなかった。
生きることは傷つき続けることだ。どんなに避けたくても、不意に降りかかってくる悲しみや苦しみからは逃れられない。私は何度も打ちのめされ、その度にもうダメだと思った。絶望の音を聞いた。死ぬしかないと思った。
けれど最近、もう、傷をトラウマになんかしたくないと強く思った。とても強く、思った。
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私は今まで不安に陥った時、すぐに「どうにかしなければならない」と切羽詰まっていた。不安になることを恐れて逆に不安になるなんていうことも、ざらにあった。
だからまずは、不安であることを受け入れてみよう、と思った。
朝起きて、ああ不安だと感じる。そんな状態を許すことから始めた。丁寧に顔を洗い、いつものようにパンを焼く。好きな本を読む(絶望した時に読む太宰治はとても良い)。浮かんでくる言葉をそっと外に放ってやるように、小説を書く。気が滅入ってきたらお気に入りのカフェに出かける。夕焼けが綺麗だったら、金木犀の香りを追いかけて散歩に出かける。
そして感じた。
――不安は、永遠には持続しないのだということを。
永遠が存在しないことが救いになることもあるのだということを、私は知った。
そういえばあの傷やあの傷も、今はもう私の大切な一部になっていることに気がついた。受けた傷は完全には消せない。けれど確かに、私を生かしている。
道端で見つけた金木犀に鼻を近づけながら、何だ、傷つくことも不安になることも、そんなに恐れることないじゃないか、と思った。
***
傷ついた人が優しくなれるなんて嘘だ。敏感な人ほど優しいなんていうのも嘘だ。傷ついた分だけ残酷にもなれるし、敏感さは使い勝手の良い鋭利な刃物になりうる。
優しくなろうと努力した人だけが、優しくなれるのだ。
私は、優しくなろうと努力し続けたい。弱いまま、優しく。しなやかに優しく。大切な人のことも、自分のことも守れるように。優しい人に、なりたい。
トラウマを恐れるのはやめた。
虎と馬が向かいから飛び掛かってきたら、貧弱な私はきっとひとたまりもない。けれどその二匹を飼い慣らすことが出来たなら――きっと大丈夫だ。虎はネコ科だから懐けば可愛いだろうし、馬は疲れた私を背中に乗せてくれるかもしれない。
なんて、ここで強がりたいだけかもしれない。いいや、またすぐ不安になるかもしれないけれど、少なくとも今は、こんな風に思えるんだから。
……やっぱり米津さん、歌にしてくれないかなあ。
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