人間

縄文時代は争いがなかったのに。令和はこれだから。
渋谷駅の田園都市線と東横線を結ぶ改札通路、そこで白髪が似合うご年配の方と金髪のビジュアルを纏った方がぶつかったのだろう、言い争いをしている。
「どこ見てるんだよ」
「おまえこそ、どこ見てるんだ。この若造が。俺が今日どんな気持ちで歩いてるのか知ってんのか」
「何言ってんだよ。この老いぼれが。ふざけるなよ」
大体こういった内容だった。10メートルは離れた脇を歩いている私たちが聴き取れたのだから、お二方ともかなりの大声だったのだろう。
それを見て、冒頭の台詞を友人が呟いた。
それに対して、「争いはなくても、ああいう些細な言い争いはあったんじゃないか?」と私は言う。
「なかった」友人は断言した。まるで縄文時代を生きていたかのように。
「あと、勝手に他人の言い争いを些細だと決め付けるのは良くない」友人は続けた。
「でも、単に肩がぶつかっていただけじゃないか」
「あのご年配の方はこれから孫に会いに行くんだ。幼い頃から幼い孫を肩車をすることが夢だった。何日間も肩車を成功させるために肩の調子を整えた。マッサージ店や整体にも通ったりしてね。そして今日、ようやく、だ。ようやくその肩を語る時が来たんだ。そうしたら肩に体を当てられたんだ。さっきの衝撃で今までの努力は水の泡さ。そりゃ怒っても無理はない」
「何言ってるんだ?」
「仮に、だ。仮に俺が語った通りだとしたらあんな風に叫ぶのも無理はないだろ」
「まさか」
「大事なのは想像力なんだ」
「まあ、言わんとしてることはわからないわけではない。こじつけで心が落ち着くなら、それに越したことはない」
私はふと、さっき来た道を振り返る。
金髪の方が、ご年配の方を肩車しているのが目に入った。
世の中は、わからないことばかりだ。
「あれはじゃあ、どうやったら説明がつくんだよ」私は友人に嘆く。
「あれはな」友人はまたすらすらと想像力を広げていく。
その突飛な想像力を聴きながら、私は折り畳み傘を畳んでいく。
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