卒業文集の行間

住人

 小学校の頃の同級生が、プロ野球選手になった。
 
 すごい、と思った。ほわあ、という声が出た。
 
 そういえばドッジボールをする時、彼が同じチームにいれば負ける気がしなかったこととか、放課後の鬼ごっこでは絶対に勝てなかったこととか、遠い昔に同じ教室で過していた頃の諸々を思い出した。あの頃から、随分と遠くに来てしまったような気がした。

 知り合いにすごい人がいる私ってすごいんだよ、というマウントを取る人間にはなりたくない。けれど、私が彼のことをすごいと言うのも、それと同じことなんじゃないだろうかと思ったら、何だかとてもかなしくなった。

 国語なら、たぶん私の方が得意だったんだけどなあ。

 卒業文集に書いた夢を、全員が叶えられる訳ではない。全部叶うのだとしたら、この世は野球選手と宇宙飛行士とお花屋さんとパティシエだらけになってしまう。
 私は何て書いたんだっけ。あの頃の私は、何になりたくて、何が怖くて、何を考えていたんだっけ。

――今は?

 私は何になりたくて、何が怖くて、何を――。

***

 彼があの頃から続けてきたのが野球だとしたら、私にとってのそれは小説を書くことだ。
 

 一つ、白状すると。

 学生時代に死ぬほど小説を書いて、もう本気で書くのはやめにしようと思っていた。
 一つの小説を書くのには、怖ろしいくらいの労力が要る。執筆中は途方もなく孤独だ。遊びの誘いを断り一人で執筆をするのは、強がっていてもやはり苦しい。思うようにペンが進まない時は、ひどい焦燥感と無力感に襲われる。自分の中で死んでいくはずだった言葉を形にしていくことは、研ぎ澄ませた感受性と強靱な精神力が同時に求められる(プロじゃないのにそんなこと語るなと思った方、奇遇ですね、私も同意見です)。

 にもかかわらず、何百時間分の努力が、分かりやすく報われる保証はない。

 SNSでは、毎日短編小説を投稿した。長編小説をいくつも書いた。そのうちのいくつかは、公募にも出してみた。結果は様々だったけれど、結局賞を獲るには到らなかった。私には、捨てきれない期待と、些か持てあましてしまう劣等感と、屑ほどの、それでいて眩しさをいつまでも失ってくれない希望だけが残った。

 ああ、そうだよなあ。

 読書感想文が得意で現代文の授業が好きで、太宰治を愛読して小説を書いている女の子なんて、この世には掃いて捨てるほどいるんだ。落選する度に、穏やかな絶望に浸りながら私は思った。
 

 私なんか、全然特別じゃない。
 私なんか、所詮センチメンタルな痛い人間に過ぎない。

 私は結局、何者にもなれない。
 けれど、諦めるには理由が足りない――。

***

 厄介なことになった。

 本気で書くうちに、気づいたらやめられなくなってしまっていたのだ。毎日小説を投稿しているアカウントに、「あなたの小説に救われた」というメッセージが届く。大好きな教授から「書き続けてください」と背中を押される。私なんかの小説を読む時間があれば村上春樹やサリンジャーを読んだ方が絶対に有意義なのに、私の小説が読みたいと言ってくれる友達がいる。沢山の小説を書き、沢山の感想をいただいた。
 死ぬほど書いて、諦めをつけようと思っていたのに。大人になるということは、穏やかな諦念と付き合っていくことだから。

 それなのに、また、諦めるタイミングを失った。

 言葉を文章にして発信する中で、ひどく不快な思い、怖い思いをすることもあった。作家志望の若い女の子、というだけで「搾取」されそうになった。作品と実生活を絡めて考えられてあらぬ誤解を受けた。同じように書いている人が、追い込まれて命を絶ってしまうのを何度も見た。書いて発信するということは、命がけの覚悟が必要なのだと、強く、強く、感じた。
 でもそんな覚悟が、果たして私にあるだろうかと思った。私は決して前向きな人間ではないし、死ぬこと以外かすり傷なんて思えないから。何なら、生きているだけで致命傷だから。
 書くことで傷つく度に、苦しくて死にたくて堪らなくなった。でもその苦しみと、書くことをやめることを天秤にかけた時、私にとって耐えられないのは圧倒的に後者だった。

 背負ってやる、その覚悟。

 泣きながら小説を書く中でそう決意した時、弱いと思っていた自分が、以外と強かったことを知った。

 もうやめよう、と思うタイミングで、「あなたの小説が好きです」というメッセージが届く。もう書けない、というタイミングで、書きたいことが洪水のように溢れてくる。
 例え、百人に笑われたとしても、どんなに傷ついたとしても、一人の人が少しでも救われてくれるのなら、私は書き続けたいと思った。そう、思ってしまった。

***

 この星は、なりたいものになれなかった人々が回しているのだと思う。けれど私は、なりたいものになれなかった人のことを、挫折した人だとは一ミリも思わない。なりたいものになりたいと思っている人は眩しい。そしてきっと皆本当は、何かになりたくて生きている。
 死にたがりの私にとって、なりたいものになりたいと思い続けることは、生きていく上で救いになるのではないだろうか?
 そもそも、何かをする人のことを○○家と呼ぶのだとしたら、もしかしたら私はもうずっと昔から――落書き帳に、鉛筆で物語を書いていたあの頃から――小説家だったのではないか?(こんなことを言ったら、村上春樹にやれやれと言われてしまうでしょうか。ごめんなさい、春樹)

 だから私は、

 自分がどんな「小説家」になりたいのか、考えながら書き続けようと思う。
 何のために、どんなものを、どんな形で書いていきたいのか、ゆっくり探りながら、迷子になりながら、それでも書くことはやめずにいようと思う。

 実家に帰ったら、卒業文集を探してみよう。ついでに、あの頃小説を書き綴っていた自由帳も。きっと恥の塊で、見たら死にたくなると思うけど。そうしたら、「恥の多い生涯を送ってきました」で始まる小説でも書こう。

 そして。

 いつか同窓会が開かれた時、「あの頃からずっと、書き続けている人」であれるようにしよう。

 ――やれやれ。

しづく

夕暮れと夜の狭間で息をしています。 迷子のちっぽけな小説家です。

プロフィール

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