死にたがりの私たちへ

住人

『自殺するような人には見えませんでした』

 芸能人の自殺報道が、苦手だ。勝手に死の理由を考察して偉そうに言葉を並べる評論家や、「世の中にとってあまり良い影響は与えませんよね」というコメンテーターが、苦手だ。

「あの人が死を選んだ理由は、あの人にしか分からない。私にも、あなたにも、分かりはしない。分からないことくらい分かれ」
 
 そう言って、思いっきり平手打ちしたくなる。多分その後速攻退場させられて、一生テレビ局出禁だろう。

 自殺ダメ絶対。そんな標語では、死にたい人は救われない。
 誰だって苦しいんだよ。そんな言葉では、苦しい人は救われない。

 就活で東京に通っていた時、ホームが飛び降りることの出来ない構造になっていることに気がついた。東京に行けば死にやすくなる、心のどこかで思っていたのに、東京は死ぬことすら許してくれなくなったのか、と少し絶望した。
 
 自分にとって「辛い」状況に置かれた時、「逃げたい」と思うのは生き物の本能じゃないのか。そこから逃げてはいけないと考え出したのなんて、人間だけじゃないか。
 逃げて良い、どこまでも逃げて良い。幸いなことに世界は案外広い。
 でも、逃げ場が「死ぬこと」しかなくなってしまう時がある。そんな風にしか思えなくなることがある。
 考えるべきはそこじゃないのか。

 私は、自分の中にある「死にたい」と向き合おうと思った。

 いつからかずっと、「死にたい」を抱えて生きてきた。
 
 本当に危ないのは、死にたい時に死にたいと言えなくなることだと気づいてからは、ちゃんと、死にたいと口にするようにしていた。
 誰かの気を引きたいとか、心配してほしいとか、そんな風に思ったことは一度もない。死にたいと叫ぶことは、私にとって必死の防衛行為だった。
 
 本当に死にたい時に、
「どうして死にたいの?」
と聞かれても、答えることなんて出来なかった。死にたいから死にたい。それがすべてだった。

 ちょっと元気な時に「死にたい」を言語化しようとしてみたけれど、
 
 死ぬほど、難しかった。
 
 思い当たることは沢山ある。思い出したくないことも沢山ある。
 でも、明確に「こうだから死にたい」とは答えられなかった。

 それでも敢えて一つ挙げるなら、「疲弊」による「死にたい」は大きいかもしれない。

 「何もかも疲れた」時に感じる「死にたい」。恐らくこれは、幾つもの「死にたい」が重なった末に辿り着く「死にたい」だ。
 

 私は物事を、丁寧に深く考える性格だ。窒息しそうになるくらいまで考えてしまう。一つの悩みからどんどん派生して、新たな悩みを構築してしまう。考えても分からない未来のことや、今とは違う過去のことまで考え出してしまう。挙げ句の果てトラウマを持ち出して、手がつけられないくらい苦しくなってしまう。
 考えすぎる、ということは、常に穏やかなパニック状態にいるようなものだ。想像以上に、心は疲弊する。
 そして、「死にたい」は不意に襲ってくる。
 例えば、紅茶の茶葉を床にぶちまけた時。お風呂から上がった後、バスタオルを用意し忘れたことに気づいた時。何か食べよう、とか、銀行でお金下ろさなきゃ、と同じような感覚で、あ、死のう、と思ってしまうことがある。この瞬間が、一番危うい。

 ――もう、疲れた。

 人間はこんなにも簡単に、死を選べる生き物なのだ。普段、「死なない」という選択をしているだけで。

 これはあくまで、言語化出来た「死にたい」のうちの一つだ。

 他にもたぶん、ある。
 昔から身体が弱かったから、「死にたくないと思いながら死ぬ」のが嫌で、だったら「死にたいと思って死にたかった」のかもしれない。あるいは、誰かから「死ね」と言われた時に、常に「死にたい」と思っていた方が、傷つくことが少ないかもしれないという予防線だったのかもしれない。

 でも、本当に死にたくなってしまった時、自分がどうして死にたいかなんて考えていられない。

「死にたいとか簡単に言わない方がいいよ」
 ――分かってる、

「後に遺される人のことも考えなよ」
 ――分かってる、

「生きたくても生きられない人だっているんだよ」
 ――ごめんなさい、

「構ってほしいだけなんじゃないの」
 ――違う、そんなんじゃない、

「死なれても迷惑」
 ――全部、分かってるから、

 もう、何も言わないで。

 どうしようもないのだ。死にたい時は死にたくて仕方ないのだから。

 一番死にたかった時。たぶん私が欲しかったのは、安心して「死にたい」と言える場所と、穏やかな肯定と、「ところで」の後に続く他愛もない話だった。
 
 「死にたいなんて言ったら怒られるんじゃないか」という不安を抱かずに、死にたいと吐き出せること。今、自分が死にたいほど苦しいこと、それでも必死に生きているということを、「大丈夫、ちゃんと分かってるよ」と肯定してもらえること。そして、「死にたいんだね、ところで」、この「ところで」の後に、「死ぬこと」から離れた、他愛もない話をしてもらえること。
 
 たぶんそれが、私が求めていた「救い」だった。

 でも全部、過去形の話だ。
 
 私の中には、救われたい時に救われなかった私が、まだ膝を抱えて泣いている。だから私は、私が欲しかった救いを、誰かに与えられる人であろうと決めたのだ。エゴだけれど。エゴだとしても。

 「死にたい」と誰かに吐き出すことは、怖い。少しずつ吐き出せるようになった今でも、怖い。そんな自分を見せたら皆離れていくような気がするし、辛かったことを一気に思い出してしまう。「あ、いいやそういう暗い話」と拒絶されることも、「あんまり関わらないでおこう」と敬遠されることも、「命を大切にしていない」と罵倒されることも、「こんなご時世なのに不謹慎だ」と叱られることもあると知っている。それは、仕方がない。誰も悪くない。

 でも、「死にたい」と吐き出した時、

 「話していいよ、泣いていいよ」と言ってくれる人がいる。
 何も聞かずに「写真でも撮りに行こう」と誘ってくれる人がいる。
 「やってらんないね」と一緒にお酒を飲んでくれる人がいる。

 それは、私が今まで知らなかった「救い」だった。
 あの時死んでいたら、知ることのなかった「救い」だった。

 息はしやすい場所でして良かったのだ、と気がついた。
 シロクマが砂漠ではなく北極で生きることを選んだからといって、誰もシロクマを責めないのだと気がついた。
 自分を大切にしてくれる人を、大切にしたいと思った。
 少しずつだけれど、吐き出してしまってごめんなさい、の後に、吐き出させてくれてありがとう、と思えるようになった。
 
 そして、私も誰かにとって、そういう存在でありたいと思った。
 
「死にたかったら死にたいって叫んでいいよ。あなたの声はちゃんと聴いてるよ。大丈夫だよ。
 ところで――」
 
 その後に続く話を、沢山持っている人でありたいと思った。

 こんな死にたがりの私だけれど、「生きたい」と思う瞬間が全くないわけではない。むしろ、「死にたい」が根本にあるからこそ、「生きたい」と思える瞬間を大切にするようにしている。
 友達とお酒を飲んで、「また飲もうね」と言って別れる時、私はとても生きたいと思う。好きな本や映画に出会った時も。誰かと素敵な約束をした時も。少なくともその日までは、生きていたいと思う。

 ふと、思った。
 もしかしたら私は、「死にたい系」でなくなるのが怖いのかもしれない。
「生きたい」と思って生きるようになってしまったら、私が私ではなくなってしまうような気がして。
 
 でもたぶん、どっちも抱えていていいのだ。
 「死にたい」私も、「生きたい」私も。

 「死」という言葉ばかり書いてしまった。「し」と打つと予測変換で「死にたい」と出てくるので、そろそろWord先生にも心配されてしまう頃です。

 私だって、明るい話ばかり書いていられたら良いと思う。冗談ばかり言っていた方が、飲み会の場は盛り上がることも分かる。

 でも、世の中にあるのが明るい歌ばかりだったら、それこそ地獄じゃないか?
 
 苦しみを隠して明るく振る舞う度に、心は少しずつ死んでいく。その音を私は知っている。やがて、限界が来る。そして皆、口を揃えて言うのだ。「自殺するような人には見えませんでした」。

 明るくなれない時があったっていい。死にたくなる夜があったっていい。
 そんな時に寄り添える言葉を、私は書きたい。
 
 何度も本気で死にたいと思い、その度生き延びてきてしまった私に出来ることは、本人しか分からない苦しみがあることを、「死にたい」を抱えながらも生きていけることを、どこかの誰かに、過去の、あるいは未来の私に、伝えることだと思うのだ。

 『あなたの目の前で、自殺しようとしている女の子がいます。あなたは彼女に何と声をかけますか』

 大学に入学して初めて受けた倫理の授業で、投げかけられた問だ。
 当時の私は、心の深い所を突かれた気がした。積極的なタイプではないのに、大きめの講義室の前で、マイクを使って意見を述べた。たぶん、こんなようなことを言った気がする。

「明日一緒にどこかに行こう、あと一日でいいから一緒に生きようと言って、彼女を抱きしめます」

 今思うと、甘っちょろいなとも思う。本当に死にたい少女に、そんな言葉は響かないかもしれない。
 けれど、死にたさの中にいた22歳の私が、18歳の私の言葉に少し救われたことも事実だ。

 今なら何と答えるだろう――。

「死にたいと思う自分を恥じるな。必死に生きてきたことを誇れ。私は今ここで、あなたの声をちゃんと聴いてるよ」

 ――たぶんこの問に対する答えは、これからもどんどん更新されていくのだろうなと思う。
 
 自分が救われるであろう言葉でしか、たぶん、誰かを救うための言葉は紡げない。そうだとしたら。
 いつか誰かを救えるように、自分の救いになる言葉を沢山持っておきたいと思う。
 それは、いつ、どこで出会うか分からない。誰かに言われた言葉かもしれないし、本や映画の中で出会う言葉かもしれない。
 
 「死にたい」私も「生きたい」私も受入れてあげよう、というのが、今の着地点だ。どちらが良いとか悪いとかではなく、どちらも紛れもない私だから。
 でも、たぶんこれからも葛藤はすると思う。「死にたい」と呟かずにはいられない夜だってあると思う。そんな自分のことも受入れられたら僥倖だと思う。「死にたい」と思いながらも必死で生きている自分のことを。

 ところで、

 駅前に新しいパン屋さんが出来たの、知ってますか。誰か一緒に行きませんか。
 それまでは、一緒に生きませんか。

しづく

夕暮れと夜の狭間で息をしています。 迷子のちっぽけな小説家です。

プロフィール

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