深夜、埼玉の7畳半、夢を見てた

住人

薄明かりの中で、ふっと目が覚めた。

積み重なった段ボール、崩れかけた本の山、真新しい部屋の鍵。
一瞬の混乱の後、ああそうだ、引っ越してきたんだ、と思い出す。何かから逃げるように、あるいは何かを求めるように。
キッチンへ行き、コップに水道水を注いで飲む。飲み慣れた長野の水より、薬品っぽい味がして美味しくない。そのうち慣れるんだろうか。半分残して捨てた。

布団に潜って毛布の端を握りしめ、私は再び、無理矢理目を閉じた。

この3月は私にとって、学生最後の春休みだった。
「社会に出る前に、ちゃんと思い出に殺されたい」。
そんなことを思った私は、ひとりで色んなところへ「センチメンタルジャーニー」をしに行った。

3月4日。
高校時代の最寄り駅で降り、母校まで歩いてきた。通学路は、あの頃から何も変わっていないような気も、何もかもが変わってしまったような気もした。かつてパン屋さんだったところは、新しいコーヒー屋さんになっていた。クラスマッチの後や放課後に友達とよく買いに行った、セブンティーンアイスの自販機はなくなっていた。もしかすると、セブンティーンにしか見えないものだったのかもしれない。
道で、何人かの高校生とすれ違った。その中にかつての私たちがいるような気がして、つい目で追ってしまった。あの人は今、どこでどうしているだろうか。
至るところに、思い出が散らばっていた。その一つ一つを、大切に思い出しながら歩いた。好きな人と並んで信号待ちをした横断歩道。文化祭の打ち上げをしたバーミヤン。友達と買い食いした小さなイオン。

思い出がありすぎる街には住めないのかもしれない。いつからか、そう思うようになった。戻れない日々と、進んでいく日々の狭間で、懐かしさに殺されてしまうような気がして。

青いベンチに座り、かつてここで、30分に1本しかない電車を待ったことを思った。この時間が永遠に続くような気がしていた、青い放課後のことを思った。
あの頃の私は、どこにでも行けるような気も、どこにも行けないような気もしていた。
忘れない、と思った。これからどんな駅に行っても、この駅で電車を待っていたことは、きっと忘れない。忘れたくない。

大好きだったんだな、と思った。この街で過した日々、出会った人々、笑ったこと泣いたこと。全部全部、大好きだったよ。大好きだよ、これからも。

16%の両想い切符を握りしめ、私は小さな駅を後にした。

3月5日。
実家から抜け出し、小学校まで歩いてきた。10年ぶりに歩く通学路は、あの頃よりも全体的に、狭く小さく見えた。
登校中何度も落下した小川も、手入れのされていない草むらも、まだそこにあった。少し怖いおばちゃんのいた煙草屋さんはもう看板を出していなくて、ガソリンスタンドだった所には新しい家が建っていた。
小学校に上がる前の春休み、母親と二人で、家から学校まで歩いたことを思い出した。春の匂いをたっぷり含んだ風が吹く、暖かい日だった。母親の骨張った手が、私の小さな手を握っていた。当時の私はまだ6年しか生きていなかったのに、その日の匂いは何だか「懐かしかった」。
匂いって残酷だ。忘れていたことまで、鮮明に思い出させてくる。埃っぽい図書館の匂い、湿っぽい廊下の匂い、絵の具が染みついた図工室の匂い。その時見ていた景色、一緒にいた人、感じていた温度まで、全部。
あれから15年以上が経った。あまりにも色々なことが変わっていた。もうこの街に誰が残っているのか、見当もつかなかった。
随分遠くまで来てしまった、と思った。戻れないのだ、と思った。戻れないけれど、確かにあの日々は存在していたのだ、と思った。

思い出の道を歩くことで、大切に冷凍保存されていた記憶を損ねないか、正直怖かった。けれど、久しぶりにそっと溶け出した記憶は、優しく私を包んでくれた。思い出してくれてありがとう、と言われた気がした。思い出させてくれてありがとう、と私は思った。

3月12日。
引っ越し前日の深夜。
実家の自室で、昔のアルバムを見つけた。眠れなかった私は、それを片っ端から開いた。
アルバムの中にいたのは、守られていることにすら気づかないくらい、守られていた私だった。


写真に写るどの景色も、記憶にないものばかりだった。「この記憶はきっとこの子には残らない。それでも、綺麗なものを沢山見せてあげたい」。そんな、親の馬鹿みたいな優しさに、私は窒息しそうになった。
この頃に戻りたい。戻りたい。絶対的に安心して帰る場所があった頃に。
もう、実家は私の帰りたい場所ではない。帰ることが出来ない。
感情がぐちゃぐちゃになってしまって、私は声を殺してひたすらに泣いた。寂しくて仕方がないような気がした。こんな時、誰かに寂しいと言える人間だったらどれだけ良かっただろうと思った。
でも、何故だかこの夜を、忘れたくないと思った。たとえ、誰に分かってもらえなくても。

翌日、目を腫らして新居に向かいながら、戻りたい、と思った。帰りたい、と思った。

でも、

どこに?
誰のもとに?

来月23にもなるのに、私には分からなかった。
どこに辿り着くのか分からないまま、一人で見知らぬ街に向かった。

入居日の3月13日は、関東一帯に大雨が降った日だった。
ひどい雷雨の中、必死で段ボールを運び込んだ。すごく生きてるって感じがした。と言いたいところだけれど、正直めちゃくちゃ寒かったし、くたくたに疲れた。

でも、休んでいられない。折れそうになる心をえいやっと立て直し、荷ほどきをした。けれど、どうもうまくいかない。段ボールはいつまでも片付かない。服が衣装ケースに入らない。高い収納棚に手が届かない。洗濯機の取り付け業者を依頼したら、見積もりより大分高い金額を要求された。泣きたくなった。
それでもへこたれていられない。IHが何故か使えないので、電子レンジで簡単に料理をして、唇を噛みしめながらこの記事を書いている。
寂しさに心をねじ切られそうだったので、夕方になるのを待って外に出た。新しい場所から見える、夕暮れと夜の狭間の空を眺めた。随分遠くまで来た、と思った。あの頃は想像もしていなかった場所に辿り着いた、と思った。

結局思い出は、私を殺してはくれなかった。
戻りたい戻りたいと泣く私に、戻れなくても、いつでもあなたの中にいるよ、と囁いてくれた気がした。旧校舎の2組の教室も、青いブランコのある校庭も、記憶にないディズニーランドも。きっとずっと、私の救いになってくれる気がした。

いつかすべて忘れてしまうとしても、
忘れたくないと思ったことだけは、忘れたくない。

そんな瞬間に出会うために、私は生きているのかもしれない。

私も誰かにとって、そんな瞬間になれるだろうか。

藍色に侵食されていく空を眺めながら、今会いたい人を思い浮かべた。帰りたい場所を思い浮かべた。
今度その人と会う時に、「ただいま」と言ってみよう、と思った。
いつか、自分が本当に帰りたい場所に帰ろう、と思った。
それまでは、迷子になり続けよう。方向音痴は、迷子には慣れっこなんだぞ。
そして、どこかで同じように迷子になっている人と出会った時、沢山の話が出来るように。色んなところへ行って、色んな景色を見て、色んな忘れたくない瞬間を、心に留めておこう。

とりあえず明日は、美味しい水を買いに行こう。

しづく

夕暮れと夜の狭間で息をしています。 迷子のちっぽけな小説家です。

プロフィール

関連記事一覧

  1. うめこ

    思いの丈は、
    直接語り合うとして。

    アルカリイオン水というやつが
    甘くておいしいよ。