東京へ、恋文という名の宣戦布告

住人

東京OL生活を始めて半月が経ったある夜。

急に、帰り道で動けなくなった。

感情がぐちゃぐちゃになり、
もう何がつらいのかもわからなくなった。

どうしよう、と思いながら、震える手で携帯を開いた。
でも、誰に何と言えばいいかわからなかった。
助けて、なんて言ったら迷惑だろうか。
ひとりで立てないのか、と怒られるだろうか。 
怖い。拒絶されるのが怖い。

そう思ったら、何もできなくなった。

「あなたはいつも明るくてポジティブで素晴らしいね、期待してるよ、頑張ってね」

昼間、上司から言われた言葉を思い出した。
笑えない冗談だと思った。

私はこんなにぼろぼろなのに。

「ありがとうございます、一生懸命頑張ります」

何で、平気なふりしかできないんだ。

「苦しい、誰か助けて」

本当はそう叫びたいのに、
大丈夫なふりをしていたら、
叫び方を忘れてしまった。

*

東京に来てから、ずっと穏やかにパニック状態だった。

頭と心の中に流れ込んでくる洪水のような情報に、窒息しそうになっていた。

死にたいと思う暇すらなかった。どんなに不安で眠れなくても目覚ましを2つかけて起きて、毎日必死で研修に参加した。同期の子が食べている、お母さんの手作り弁当が羨ましかった。「ビジネスにおいては失敗はゆるされない」「自責精神が大事」、そう思わなければならないのが苦しかった。失敗してもすべてが終わるわけじゃないという言葉が、あなたが思うほどあなたは悪くないという言葉が、ひどく恋しかった。

じゃあね、と同期と手を振り合って一人になった瞬間、すっと静かに絶望した。電車を待つ間、東京で人身事故が多い理由が分かった気がした。でも東京のホームは、簡単に人が飛び降りることのできないつくりになっていた。そうか、死んじゃだめだよな、迷惑かかるもんなと思った。前、人身事故で電車が止まって帰れなくなった時、「もう」と思ってしまったことを思い出した。

心の感度が高すぎたら、きっとここでは生きていけない。でも、どんどん痛みに鈍くなっていくのも怖かった。

満員電車の中で、ここにいる人は皆、どこに帰るんだろうと思った。

私はどこに帰ればいいんだろう、と思った。

その感情の名前が「寂しさ」だと、気づくことすら出来なかった。

土曜日。

いつもより目覚ましを2時間遅くセットしたのに、出社日と同じ時間に目が覚めた。そのまま眠れなかった。
けれど、起き上がることもできなかった。ただじっと目を閉じて、布団の上で幾度も寝返りを打っていた。
だめだこのままじゃと思い、無理やり身体を起こして、無理やり水を飲んで、パンを焼いて食べた。お腹も空いていないのにひとりでパンを齧っていたら、急に涙が止まらなくなった。
だめだ、だめだ、だめになっちゃだめだ。
流れる涙をそのままに、食器を洗い洗濯機を回した。ごおんごおんという音を聞きながら、そういえば資格の勉強しなきゃ、とパソコンを開いたところでまた動けなくなった。

だめだ。

隣人に聞こえないように、両手で強く口を覆って泣いた。洗濯が終わるまでの35分間、ひとりでずっと泣き続けていた。息が苦しかった。動悸が激しかった。

だめだ。

どうにかしないと。どうにか。

震える手で電話をした。震える指でLINEを打った。

大丈夫になりたかった。でも同時に、大丈夫じゃない自分を許したかったし、許されたかった。

ひとしきり泣き終えたら、少し落ち着いた。

午後、やっと外に出た。
朝から降り続いていた雨は小降りになっていた。
普段通らない道を歩いた。
変な名前のカラオケスナックと、地元では見たことのないスーパーを見つけた。
面白い幼稚園バスと綺麗な花の咲いた花壇があったので、そっと写真を撮った。でも誰に送ればいいんだろう、送っていいのかな、と考え出したら心がざわざわしたけれど、とりあえず撮りたいから撮った。

胃薬をもらうために、初めての病院を受診した。
先生との相性が良くなかったらどうしよう、と思うとまた胸が苦しくなった。
でも、最近の人生はずっと絶望パートだったから、そろそろ希望パートが来てもいいんじゃないかとも思っていた。そう思える自分が残っていて良かったと思った。

先生は若い男の先生だった。
診察室に入った瞬間、肺が締め付けられる感覚があったけれど、話はちゃんと聞いてくれた。絶望か希望かでいったら希望かもしれない、と思った。1マス進む。

それでも、高いお金を払って受け取るのが胃薬なのはかなしかった。このお金があれば、一回くらい飲みに行くことも、映画を3本くらい観ることもできたのに。かなしいまま帰るのは嫌だったので、近くの図書館に行くことにした。

最近、本を読めなくなっていた。たぶん今日も読めない気がしたけれど、大好きな本に、せめて触れたかった。
図書カードをつくって、旅の本を一冊だけ借りた。いつか行きたいと思っている、パリの街歩きの本。敬愛する江國香織さんの本も借りようとしたけれど、読めなくてかなしくなる気がしたので今日はやめた。きっとまた、読めるようになるはずだから。

一冊だけ本を抱えて、そばにあった大きな商業施設に入った。フードコートの隅に座って本を開き、写真のところを少しだけ読んだ。美味しそうなクレープの写真を見ていたら少しだけお腹が空いた。セブンティーンアイスの自販機があったので、一番高いやつを選んで買った。

最近あまりものを食べられていなかったから、甘くて冷たいアイスは胃に染みた。でも、とてもおいしかった。

家族連れで賑わうフードコートでアイスを舐めながら、ふっと、私は何でこんなところにいるんだろう、と思った。

こんなにぼろぼろに傷ついて疲れ果てて、何のためかもわからず仕事に行って。職場でだけは褒められて、あとは全部うまくいかなくて。
今まで大切にしていた価値観も幸せの定義も揺らいで、自分がしたいこともわからなくなって、何も決められなくなって。

苦しかったんだな、と思った。ずっとひとりで、苦しかったんだ。

帰りたいなあ、と思った。

でも、東京に来る選択をしたことを、間違いだとは思いたくなかった。

怖くて仕方なかったけれど、頑張ってみたいと泣きながら決めたあの日の私を、愚かだったとは思いたくなかった。

東京なんか来なければよかった、と思いたくない。
東京に来て良かった、と思いたい。

私は東京のことも、今住んでいる街のことも、ちゃんと愛したい。

そして、
本当に帰りたい場所で、
「ただいま」を言いたい。

だから。

翌日。

朝起きた瞬間、やっぱり身体が重くて、ああ調子が良くないな、と思った。しばらく天井を眺め、「何もしない」をした。まずはその状態を許すことだ、と思った。浅い夢を何度も見た。その中には幸せな夢もあった。海沿いをドライブしている夢だった。

「何もしない」に疲れてきたので、ゆっくり起きて身支度をした。本はまだ読めそうになかったけれど、文章をとても書きたかった。天気が良かったので外に出て、最近お気に入りのカフェに行った。アイスティーを飲みながら、ゆっくり、おどりばの記事を書いた。

記事を書くのに、こんなに時間がかかったのは初めてだった。書きたいことは沢山あるのに、頭の中がごちゃごちゃしてまとまらなくて、書いては消し書いては消し、怖くなったり泣きたくなったりしながら、でも書きたいと思い、やっと書き上げた。

出来た、と思った。

怖いけど、少なくともひとつ、やりたいことが出来た。

東京に来て恐れていたことは、今のところ大抵起きている。でも一番恐れていた、「そんなことになったら死んでしまう」ということは、今のところ起きていない。

「あなたが思うよりあなたは強いから大丈夫」

長野を出る前、ある先生が言ってくれた言葉を思い出す。

そうか、確かにそうだ。私は今、きっと、よく頑張ってる。強いよ。えらいよ。強くなくてもいいけれど。そう思えているくらいには強いよ。

――だから、

かかってこいよ東京。貴方を愛する準備は出来ている。

これは私から貴方への、恋文という名の宣戦布告だ。

しづく

夕暮れと夜の狭間で息をしています。 迷子のちっぽけな小説家です。

プロフィール

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