生きたい場所で息をする

6月13日、ひとりで太宰治のお墓参りに行った。
お墓の前で手を合わせた時、
「私はもう少し生きたいので、どうか見守っていてください」
と願えたことに驚いた。
死にたがりだった私が、今、生きたいと思っている。
以前、死にたさの種類について記事を書いたことがあるけれど、今なら追記できる。
「辛いのも苦しいのも死にたいのも、必死で生きようとしているからなんだよ」
*
最近ずっと、というか今までもよくあったけれど、将来のことが不安で眠れなかった。
仕事がつらくて、身体もつらくて、でも病院に行く余裕はなくて、帰り道に涙が止まらなくなるのに、どうすればいいかわからなかった。
「社会人は、1ヶ月ごとに職務経歴書を作るといい。いつでもどこへでも逃げ出せるように」
眠れない夜、敬愛する作家さんの言葉を思い出した。
恋人は3ヶ月、
会社は3年待て、という。
社会人になって3ヶ月経ったけれど、生憎会社は私の恋人ではないので、3ヶ月で簡単に別れを告げてはいけない、らしい。
でも、好きでもない相手と3ヶ月以上一緒にいることに、果たして何の意味があるのだろう。
逆に好きな相手となら、3年はおろか、朝起きるような自然さで、一緒にいたいと思うものだよ。
会社に一生いろ、と言われたら絶望する。
けれど好きな場所で、ずっとここにいていいよと言われたら、それ以上の幸せはないよ。
私は、ここで生きたいと思える場所で、生きたい。
職務経歴書。
書くか。
でも、職務経歴書という言葉は好きじゃない。
別の名前がいい。
人生のあらすじ、とか。
いつでも新しい章を始めるための。
*
何から書けばいいんだっけ。
まずプロフィールか。
でも私は大学を卒業したのに、プロフィールをいつまでも更新できずにいる。
社会人としての(という枕詞は好きではないが)肩書は、たぶんWEBディレクターなんだけれど
それがなんだ、と思ってしまう。
都内のこ綺麗なオフィスで仕事をしている自分に、ずっと違和感がある。
演劇部の部長さん、とか、太宰好きの比文ゼミ生、とか、物思いに耽りがちな詩人もどき、と呼ばれる方が、素直に返事ができる。自分として、しっくりくる。
私はずっと、憂いがちで夢見がちな文系学生でいたかった。
従順で健康な新卒のふりをして、社会に出たけれど。
本当は、ずっと息ができない。
ビジネスの世界で、うまく息ができない。
苦しい。
新卒にしては重すぎる案件、やってもやっても終わらない業務、過度な期待とプレッシャー、圧倒的な価値観の違い。
会社はすべて減点方式だと知った。出来るのが当たり前で、できなかったらマイナス。
大切なのは効率で、忌み嫌われるのは「無駄」。読書は効率的に。週に2冊はビジネス本を読め。要点はまとめてアウトプット。ここに、太宰や漱石を読む人はいない。
申し訳ありませんと謝れば、「その8文字を打つ暇があるなら早く仕事をしろ」。誠に申し訳ありません。ああ、また2文字増えてしまった。本当に申し訳ありません。あああ。
平気なふりをして明るく振る舞っているけれど、トイレやエレベーターの中でひとりになった瞬間、理由がわからずに涙が出てくる。
ここで私は、一体何をしているのだろう?
私には、もっと大切にしたいものがあったんじゃないの?
私のほしかった幸せは、ここにはない。
*
私はパン屋さんにも、
セーラームーンにも、
スクールカウンセラーにも、
絵本の編集者にもなれなかった。
小説家と詩人の片鱗を捨てられないまま、
生きていくためにOLになった。
でも、心を殺しながら生きるのは嫌だよ。
息のしやすい場所で息をしたい。
好きだと思える価値観に触れていたい。
好きだと思えるひとのそばにいたい。
そのためには、どうすればいい。
私がしたいことはなんだ。
できることはなんだ。
企画やデザインの仕事自体は好きだ。何かを考えたり、それを形にしたり、発信したりすることは、ぶっとずっと好きだ。
通勤時間は大抵、訳のわからない看板やコピーを眺めて思いを巡らせている。都会の情報量の多さには辟易するけれど、時々、すごく琴線に触れる言葉やデザインと出会うことがある。
私は、自分が素敵だと思ったことを、伝えられるひとでありたい。ひとを、言葉を、伝えることを、大切にしていたい。
長野に帰りたい。
長野には、私の大切にしたいものが沢山あるから。
でもそれは、
ずっと長野にいたら、気づけなかったこと。
優柔不断な私が長野で生きることを選ぶには、一度、長野を出ることが必要だったのだと思う。
だから、社会人1年目に東京で働くことを選んだことを、後悔はしない。間違いにはしない。
ざまあみろ、思われたとしても
自分は自分のことを、そう思いたくない。
思わない。
いつか、今の場所から抜け出そう。学べることだけ学んで。心と身体が崩れないうちに。
でももう去年のような、堅苦しく息苦しい就活はしない。
取り繕ったガクチカも自己PRも、何の意味もない。
好きでもない御社に、今後のご活躍とご発展を祈られてたまるか。
そのかわり、
自分が大切にしたいことを、抱いている思いを、
自分の言葉で、伝え続けていよう。
伝えたいことを、伝えたい時に、伝えたいひとに、伝える。
私にとっては一番難しくて、でも一番、大切なことだから。
*
この記事は6月中、通勤時と退勤時と深夜にひたすら書いたり消したりしていた。
でも、桜桃忌の朝、今日書き切ろうと決めた。
大切なものを大切にしたいと思える自分のことは、少しだけ、好きです。
誰かから嫌われた時に心を打ち砕かれないよう、自分が一番自分のことを嫌っていよう、と思って生きてきたのに。最近は、誰かに嫌われたとしても、私だけは私のことを好きでいてあげたい、だから、私が私を好きでいられる場所にいたい。そう思えるように、なりました。少しだけ。
こうして言葉を綴ることで、どこに辿り着けるかわからないけれど、
きっと大丈夫、だって私は今、
行きたい場所に向かう、電車に乗っている。
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