漂流

住人

休職を決めた。

7月のよく晴れた水曜日だった。

働かないと殺される街、新橋。SL広場の真ん中、首から提げた社員証。3か月間、私を社会人と証明してくれたもの。

「空はこんなに青いのに」

この後に続く言葉を、必死に探した。押し寄せる不安に気づかないように。

いや、もしかしたら。休職したから、空が青いのか。わからない。僕はブルーでやっぱりブルーで、どこまでもブルー。どうせブルーなら、せめて綺麗な青でいたいけれど。

半ば呆然としながら、電車に乗った。午後2時の上野東京ラインは、朝の混み具合が馬鹿らしくなるくらい空いていた。

23年間、大きな流れから外れないよう必死で生きてきた。流れから外れることを悪いことだとは全く思わないのに、自分に対してだけは許せなかった。

だからどんなにきつい状況でも、「耐える」という選択をしてきた。誰にも言えない生きづらさといつも戦っていた。だからきっとどんなにつらくても、「普通の会社員を演じる」ことはできてしまうだろうと思っていた。

実際、そうだった。私ははたから見ればきっと、ちゃんとした会社員だった。

一体何がつらかったのか。ずっと、「つらさ」の因数分解をしている。でもそれには精神力がいる。つらかったことを全部思い出さなければならないから。そして解答用紙を埋めるには、それを言語化しなければならないから。人生の数学と国語。

犯人探しをするのは好きではない。人、仕事、環境。色んな要因が重なったし、「仕方のない」ことだって沢山あった。今更何かを責めてもつらくなるだけだ。

だから結局、何も考えず「自分が悪い」と思うのが一番楽だ。どんなにつらいことがあっても、「勝手に傷ついて勝手に病んだ私が悪い」と帰結させてしまえば。誰かを、何かを責めるより、そのほうがずっと楽だ。

でも、

それじゃただの、悲劇のヒロイン症候群だ。そんな病名いらない。私はかわいそうな自分に酔いたいわけじゃない。私は幸せに生きると決めたから。酔うのは好きな人たちとお酒を飲んでいる時だけで十分だ。

だから、つらさと向き合うことにした。こんがらがったつらさを因数分解して、それと戦うべきなのか、飼いならすべきなのかを考える。でもそれだけではつらいから、自分が会いたい人に会って、話したい人と話して、自分が生きたい場所を見つけ直すことにした。

問22、あなたのつらさを因数分解せよ。その上で、あなたの望む生き方を書きなさい。字数は無制限。現時点での思いで構わない。あなたが生きているのは紛れもなく「今」である。忘れることなかれ。

一番つらかったのは、自分の生きたい人生と、今の人生とのギャップに心を引き裂かれそうになったからだと思う。

東京が合わなかった、と言うと語弊がある。東京の、今の会社の、そばにいる人たちの人生を、自分も送りたいと思えなかった。ずっと、その場所にいる自分に違和感を抱いていた。それを、許容できなくなった。

違和感を抱くのは仕方がない。どこにいても誰といても、「あれ、何か違う」と感じる瞬間は訪れる。人生は唯一無二だからだ。自分と全く同じ価値観なんて存在しない。その中で、「面白い」「好きだ」と思える違和感と付き合っていくのが、「誰かとともに生きていく」ということだ。

私の場合、会社でそう思うことが出来なかった。

好きな人たちと会ったり話したり、好きな場所に行ったりした後、決まって泣きたくなった。私にはこんなに好きな人がいて、好きな場所があるのに、そこで生きることが出来ない。

「ここで頑張っても、自分の生きたい人生が手に入るわけではない」と気づいてしまった。頑張ったらもしかしたら、それはいつか叶うかもしれない。でも「いつか」が来なかったら?頑張れば頑張るほど、ほしい幸せから遠ざかっていく気がした。

ぼろぼろに疲れて夜道を歩いていると、虚しさで殺されそうになった。このつらさを言葉にすることすら虚しくて、いつも泣いていた。スマホを線路に投げ込んで、行方不明になってしまいたいとすら思った。

いっそ、大切なものなんてなければよかった。生きたい人生なんてなければよかった。なければ、生きていくためにいくらでも心を殺して、働き続けることができたのに。

このままでは引き裂かれると思った。そして自分の性格的に、「こうすべき」方を選択してしまうと思った。今の会社にい続けるために、大切で失いたくないものを捨てることになる気がした。

まだ、私の目は死んでいない。

童話の中のお姫様は大抵、「いつか王子様が助けに来てくれる」と願っていると、颯爽と王子様が現れて連れ去ってもらえる。でも私は生憎お姫様でも何でもない、傷つき疲れたOLだ。

だから、「助けて」と叫ぶことにした。私はここにいる、やりたいことがある、ここで生きたい、と。

7月、色んな人と話をした。極度の不安状態で人と会うのは、骨折した陸上選手にフルマラソンを走れというくらいハードルが高いことだった。だから、その不安ごと言葉にして発信しようと思った。不安の中で紡いだ言葉を、勇気を出して色んな人に伝えた。

立ち上がろうとする私の手を取ってくれた人が沢山いた。おどりばの住人の方にも沢山お世話になった。22号室から夜な夜な泣き声が聞こえても、通報しないでいてくれた皆さん、本当にありがとう。「大丈夫?」とドアを叩いてくれた方、本当にありがとう。

おどりばの方は皆、「書いてくれてありがとう」「話してくれてありがとう」と言ってくれる。私からすれば、逆なのだ。「書かせてくれてありがとう」「聴いてくれてありがとう」。人生のおどりばに立っている時、この空間に放たれた数多の言葉に救われ、「ひとりだけどひとりじゃない」と思える。

一人でいると不安状態は悪化し、考えることすべてが最悪の方向に向かってしまい、どうしようもなく苦しかった。自分の感情に自信が持てなくなり、つらいのは全部自分の勘違いじゃないかとさえ思えてきて、何もかもが怖くて動けなくなった。でもそんな時、「ここで話していいよ」「帰っておいで」と言ってもらえることが、とても救いだった。

言葉にすることはエネルギーを使う。でも、言葉にして伝えると、言葉を返してくれる人がいる。「伝えてくれてありがとう」と言ってもらえる世界線があることを思い出した。

「しづくちゃんが大切に思う人が、しづくちゃんを大切に思わないわけないでしょう、皆で囲んでぎゅーだよ」

電話の向こうでそう言われた夜、私はこの人生を大切にしたい、と思った。社会に出てからずっと、間違えてしまったと思っていたけれど、私は何一つ間違えてなんかない。私には大切にしたいものが沢山ある。大切なものを大切にできる生き方がしたい。

それがすなわち、自分を大切にするということだから。

長野に帰ってきて、これからのことを考える中で、色んな人と会う約束をし、話を聞きに行った。

「初めて会う人に”話を聞きたい”と言える、あなたは勇気があるなと思いました」

ある人にそう言われ、はっとした。

私は自分に自信がないし、迷ってばかりだし、実際路頭に迷いかけで、不安で仕方ないのに。そんな状態でも、言葉で思いを形にして、伝えることができる。生きたい方向に向かって、動くことができる。私の強みはこの勇気だ、と思った。はたから見たら愚かしいかもしれないけれど、これはきっと、大切にするべき勇気だ。

休職を迷っていた7月の初め。「まずは新宿からバスに乗ろう」、そう言ってくれる人がいた。でも、そんな勇気を出せるか不安だった。「いるべき」場所から抜け出して、「いたい」場所に向かうバスに乗ることなんてできるだろうかと。でも、ちゃんと乗ることができた。

この夕方を忘れたくなくて、新宿から見える空を撮った。人生の岐路にいる時はいつも、新宿駅にいる気がした。会いたい人に会った日も、自分の思いを外に発信しようと決めた日も、初めてブログを書いた日も、私は新宿駅から空を見ていた。少しくすんだ、淡い夕空。今度ここに立つ日は、もっと澄んだ空が見えるといいなと思う。

人生で初めて、大きな流れから外れた。そして見つけた別の流れに、勇気を出して飛び込んだ。休職期間が終わる8月末までに、私はどこに流れつけるだろうか。その先に何があるだろう。

いつか、「かつてつらかったけれどどうにかなりました」という文章を書けたらいいけれど、つらさの渦中にいる時も、文章を書いていたいと思う。そんな時に書くのは力が要るし、痛々しいし、どうにかなっていないのにどうにかなる未来を描くのはあまりに難しいけれど。本屋にもSNSにも「つらかったけど今はつらくないよ」という言葉ばかり並ぶけれど。「今もつらい、でも生きてる」という言葉だって並んでいいじゃない。それがいつか、誰かの灯になれば嬉しい。

つらさの代弁者が詩人なら、私は喜んで詩人になる。つらさを嘆く詩じゃなくて、つらい中でも希望を失わない詩を書くよ。死にたくて生きたくてどうしようもない詩を書くよ。

最近、4年間住んだ街で迷子になった。知らない道を歩きたくて歩いていたら、見たことのない景色が広がっていた。あちゃーと思ったけれど、解放された気がして、少し気持ちよかった。熱中症寸前で辿り着いたがストで飲んだレモンソーダはたまらなくおいしかった。ここで一緒に履歴書を書いた友達、元気かな。

帰りは、景色を目に焼き付けるようにゆっくりと歩いた。涼しくて星の見える夜は久しぶりだった。好きな夜の匂いがした。大きなガスタンクがなぜか愛しくて、なんとなく写真を撮った。

問22。私の、夏休みの宿題。

ゆっくり考えよう。ひとりだけどひとりじゃない。考え疲れたら、公園でほろ酔いとか飲もう。よければ一緒に。

ここが、今の私の居場所。ただいま。

しづく

夕暮れと夜の狭間で息をしています。 迷子のちっぽけな小説家です。

プロフィール

関連記事一覧

  1. この記事へのコメントはありません。