ずっとゆるしてほしかった

住人

会社を辞める決断をした。

大切にしたいことを考えて、動いて傷つき考え動き、の繰り返しの中で、やっと覚悟を決めた。

このままだと大切なものを取りこぼす気がした。「選択肢を広げる」段階から、「選ぶ」段階に来たと思った。

決断するまでの過程でずっと、「ゆるし」について考えていた。息ができなくなるくらい、叫びだしたくなるくらい。おどりばの下書きをみたらあまりに支離滅裂だったので、少し息を吸って、文章と思考に酸素を入れた。

ずっとゆるしてほしかった私が、覚悟を決めて決断するまでの、
サクセスストーリーでもなんでもない、純度の高い備忘録。

*

ずっと、誰かにゆるされたかった。
何を、という次元ではなく、ただすべてを、過去も今も未来もすべてを、ゆるされたかった。

ゆるされているという実感が希薄だから、一挙一動が、決断をすることが、不安で仕方なかった。

何をすることもゆるされていないんじゃないかという脅迫で、息ができなくなっていた。

私が選ぶこと、決めること、全部、誰かゆるしてくれますか。

私の中からは私以上の答えは返ってこなくて、私の中で膨らんだ化け物は絶対に私をゆるしてくれなかった。

「誰かゆるして、助けて」という感情をどこにぶつければいいかわからなかった。メッセージツールを開いては「助けて」の4文字を打ち、でもそれを送信することができなくて泣いていた。送れなかったSOSは消せないまま、私の画面だけに残り続けた。どうしようもなくなってTwitterに放つSOSは、虚空に放つヘルプサインのようで、何でこんなことしかできないんだと絶望していた。

*

コロナが流行りだした時、私は「自分の周りの大切なひとたちだけは助かってくれ」と思っていた。同じように全人類が思って、皆が皆「誰かにとっての大切なひと」になれていたら、誰も取り零されずに救われると信じていた。
でもその祈りには「大切にされていないひとは救われてはいけない」という意が含まれていると気づいた時、強い衝撃を受けた。
そうか、私の考えは、本当の「ゆるし」ではなかったのか。

本当のゆるしとは、一体なんだ。

*

社会に出てからの一年間、就職休職転職活動復職副業退職の決意、に至る過程で、悩み葛藤し傷つき、その度本気で限界だと思った。

でも死にたくなかった。
生きたい世界で生きることを諦めたくなかった。

東京に来た理由のひとつが「ひとりで死にやすそうだったから」なはずなのに、気づいたらひとりで死ぬのがこわくて、生き延びようと必死だった。

抱えきれないくるしみに肺を圧迫されながら、色んなことを考えた。ひとりで考えていると思考はどんどん破滅に向かった。
不整脈で眠れない夜は走馬灯のようなものを見た。瞼の裏に映写機で映し出された記憶は、何故か忘れたいようなものばかりで、こんなものを抱えて生きていくことなんて不可能だと思った。

だからこそ、ゆるされたかった。
何もかもを。

生きていても、死を選んでしまっても、生きようと思っても、死に選ばれてしまっても、

ひとはゆるされているのだと。

その時はっと、閃光に撃たれたように思い出した。
初めて『人間失格』を読んだ時に感じた「ゆるされた感覚」は、この感覚と同じじゃないか?

誰かから大切にされていても大切にされていなくても、ひとは生きていていい。生きたくてもいい死にたくてもいい、生きていてもいいし死んでしまってもいい。人間失格だとしても、人間のままでいい。

あなたは常にゆるされている。
その圧倒的なゆるしに、19歳の私は人生ごと救われたんじゃなかったか。

ゆるさないのは、あなたでしょう?

誰かに、何かにゆるされていない気がしておかしくなりそうだった時、
私に「ゆるし」をくれたひとがいたから、ぎりぎり生き延びることができたんじゃないか?

色んなタイミングで私をゆるしてくれたひとに、私は生かされてきたんじゃないか?

「ゆるされている」の言葉がどれだけ安心するか、まだ、一生かけても書ける気がしないじゃないか。

そうか、私はゆるされたかったんだ。
すべてを。
本当にすべてを。

そして、ゆるされているという安心感の中で、選んでいきたかったんだ。

*

人間には意思が存在する。それはエゴとニアリーイコールだ。

例えば、生きても死んでもひとはゆるされるのだけれど、大切なひとたちには生きていてほしいと思う。これはエゴだ。死にたかったくせに今はすごく生きたいと思う。これもエゴだ。何を選んでもゆるされていることを前提として、これはゆるせない、これはゆるせる、を決めるのは意思だ。エゴだ。

ゆるしとエゴの狭間で、やっぱりぐるぐる悩んでしまうけど、私は神様ではないのだから、エゴイスティックでいいのか、いいのか。

選んで、いいのか。
生きる場所を、大切にしたいものを、
選んでいいのか。

*

ゆるすゆるさないの葛藤の中で、東京の会社員という肩書を捨てるのがどうしてこわいのか考えた。

お金がなくなるのも、再就職先が見つかるかわからないのもこわかったけど、一番は、やっと乗れた「普通の波」から落ちるのがこわかったんだと思う。

大学出て、会社に入って、自立して、働く。理想とされている「普通」に、しがみつこうと必死だった。誰にも迷惑をかけずに生きていたかった。そのためには普通であることが絶対条件な気がしていた。

OLの演技は楽だった。普通なふりができる自分に軽く絶望した。ストレスと孤独を噛み砕いて微笑みながら、エレベーターの開ボタンを押して待つ自分が気持ち悪かった。休憩時間も通勤時間も帰ってからも文章を綴り続け、これを昼間の8時間にできたらどんなにいいだろうと思っていた。副業としてお仕事の手伝いを始めてからは尚更だった。

ずっと普通の波に乗り続けなきゃいけないのか、と思った時、心が鈍い音を立てて折れた。

普通ってなんだよ。
世間体とは私なのだよ。

*

でも、ぎりぎり普通にしがみついてきたのにそれを手放したら、待っているのは破滅かもしれない。
普通の波から下りたあと、こわくてどうにかなってしまうかもしれない。
この文章を書いている間にも、動悸がやんだり収まったりしている(上野東京ラインの片隅)。
でも、感情を押し殺して生きるのは、合わない役を演じ続けて生きるのは、限界だ。

帰りたい場所に帰って破滅したら、それが私の運命だったと諦めがつく。合わない場所で目的をなくし、普通を演じ続けるよりよっぽどいい。

だから、会社を辞めようと思った。
会社を辞めて、長野に帰ろうと思った。

*

いつ退職意向を伝えようか考えていたら、隣の上司が「早く結婚して会社辞めたい」と言った。話を合わせながら、ひとはどうして結婚するんだろうと思った。会社辞めるために結婚するのが普通なのか。でも、もし大切なひとが働けなくなった時、一体誰がそのひとを守る?

ひとは結局ひとりなのに。
もう悔しいくらいわかるのに。

だからこそ私は、安心してひとりになれる場所で生きたいと思う。
あなたもひとりだね、私もひとりだよ、でも一緒にいるね、という感じで、ひとと一緒に生きていたい。昼下がりの人文ホールみたいなぬくもりと安心感の中で生きていたい。

結婚は墓場よ、と誰かが言った。だとしたら、このひとの隣でなら半永久的に眠れる、と思うひとと一緒にいられたら幸せなんだろうと思った。

そうか。

「自分以外に、自分のことをゆるし続けてくれるひとがそばにいてくれる」ことが結婚なら、私は結婚したい。

こんな結婚観を抱いた時点で、本当にひとりぼっちで東京で働き続けるのは無理だと悟った。東京に戻ってから、半永久に眠れない夜が続いていた。ひとりだけどひとりじゃない、という安心感を感じるためには、ちゃんとそう感じられていた場所に生活拠点を移すことから始めようと思った。

生きていたくない場所でひとと深く関係を築くのも、仕事に打ち込むのも無理だ。それは自分にも相手にも不誠実だ。

でも東京に来なかったら、一生東京東京言ってただろうから、来てよかった。新橋のSL広場で寝不足の目をこすりながら空を仰ぐと、バカみたいに高いビルの遥か上を鳥が飛んでいた。台本の台詞を忘れて泣き崩れたくなった。

*

春、生まれ育った長野に帰ります。

でも、まだ会社も住処も決まってない。
やりたいことも好きなことも携わりたいこともたくさんあるのに、果たしてそれだけで生きていけるだろうかって、現実主義の私が囁き続ける。

「お前は重度の不安症だろ。どこかに頼ることすらこわくて仕方ないんだろ。助けての4文字すら打てないんだろ。そこらへんで野垂れ死んでも知らないよ」

こんなんで大丈夫なのかな。
でも、決めた。こわいけど決めたんだよ。

いつだって乗り越えてきたじゃないか、
一番不安なのは動く前だって知ってるじゃないか。

病的な恐怖はいつだって、
変わろうとする前にやってくるんだよ。

生きたい場所で息をしたい。
人生は思うより短いから。

東京で頑張ったことは、
誰よりも私が一番知ってる。
履歴書になんか書ききれない。
もう十分頑張った。
思い返した時、「本当に頑張った」と
納得できるくらい。

くるしかったこと、かなしかったこと、
生きたい場所で生きるための努力はやめなかったこと、
心が動く瞬間、感情が色づく瞬間、
全部、私は知ってる。

「だからもう大丈夫だよ。あなたは生きたい場所で生きていい」

そうやって、
私は私をゆるしたい。

*

年末年始、長野に帰った時、
理性とか一切抜きに、ただ
「ここにいたい」と思った。

8時間分の余白が空いた脳には酸素が行き渡り、空気と水の美味しさに感動した。食事も睡眠もまともにできる状態じゃなかったのに、会いたかったひとと食べるものは本当においしくて、カフェのごはんも年越しそばも居酒屋さんのジントニックも全部おいしくて、それだけで泣きたくなった。夜は冷たいのにあたたかくて、帰りたくなくて駅前MIDORIを5周くらいしてしまって、でもその時間すら大切に思えた。

帰りたくない、と思った。
その時点で、ここが「帰りたい場所」なのだと思った。

私長野が好きです。
長野で出会ったひとたちが好きです。
東京で会うひとたちも、出会ったのは長野です。
これから長く生きていたいと思うのも、長野です。

*

いつかの私に、いつか出会うかもしれない私に、あるいは、私のことを知っているひと知らないひと、すべての時間軸とすべてのひとに届いてほしい。

私はあなたをゆるしている。

あなたがあなたをゆるせなくても、あなたはゆるされている。

だからあなたは生きたいように生きて、死にたいように死ねばいい。その日が来るまで、書きたいことを書き続ければいい。

大丈夫だよ。

私はあなたをゆるし続けるよ。

だから決めた、

私は長野に帰ります。

しづく

夕暮れと夜の狭間で息をしています。 迷子のちっぽけな小説家です。

プロフィール

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  1. うめこうめこ

    これをあなたが読んでいるということは、
    目を背けていたあなたの「おどりば」を
    私が全部読んだということです。

    しづくちゃんの文章を、読みたくなかった。
    しづくちゃんが自分をひらけばひらくほど
    私よりもずっとすごくて
    圧倒されてくやしくて、
    醜い感情が膨らんでいくから。

    すごくないですって言おうとしてるね?
    これは、私の感想です。
    私がすごいと思ったからすごいんです。
    その感想は、ゆるされるものです。ゆるせ。

    なぜかわからないけど、
    今日は読めると思った。
    今日からは、読めると思った。

    快晴だからかな?
    大好きな松本に向かっているからかな?
    大好きな人に会いに行くからかな?
    分からん。たぶん全部。

    私は、しづくちゃんの文章が好きで
    しづくちゃんの生き様が好きで
    どんなに醜い感情を抱いたとしても
    絶対に嫌いになりたくないひとだと思った。

    必要な出会いだと思った。

    読んで、やっぱり、
    やっぱりすごいや敵わないやって思ったけど
    それ以上にやっぱり好きだと思った。

    一緒に、書きたいと思った。

    これを最後に読んで、
    篠ノ井線快速でガッツポーズをしそうになった。

    春から長野で、会えるね。
    漂流者どうし、一緒に考えよう。

    きっとしづくちゃんのほうがずっとずっと
    前を歩いているけど
    私、一緒に考えられるように頑張ろうって

    すこし心が揺れました。

    好きだよ、おかえり。