病熱

住人

何処にもいけない私をどうする、と米津玄師が歌ったのは10年も前らしい。

10年。

あの頃どこにもいけない14歳だった私は、今年24歳になる。

好きなことが少なくなり

嫌いなことがたくさん増えた

言いたいことがたくさん増えて

言えないことがたくさん増えた

本当の地獄は当人にしかわからないという事実、人の行間は解釈でしか埋められないという現実、その解釈が歪むと人生は修羅になるという地獄。それら全部、痛いほど知ってしまった。Twitterを遡ると暗いことばかり言っていて気持ち悪い。

最近夜中にひどい不整脈を起こした。1時間半のたうち回った末に救急車を呼んだ。近くに誰かいないんですかと聞かれ、何も答えられず号泣した。悪い夢の中を泳ぎ続けているみたいだった。

応急処置を受けた翌日、すべてを隠して出勤した。病院代を稼がなきゃ、仕事しなきゃ、職を失えばすべて終わりだの一心だった。会社の人は誰一人気づかなかった。言っていないから当たり前だった。時々トイレに駆け込んで吐いた。

意識が朦朧とする。食べ物が喉を通る感覚がない。左半身が痺れてずっと痛い。演者の私が必死に働いているのを、遠くからベッドの私が見ている感覚。働けば働くほど割り振られる案件は増えていく。

つらい、助けて、と思うたび、私のなかのひろゆきがすかさず私を論破する。破滅論破王が住むようになったのは、一体いつからだっただろう。

「えっと、別に辛いときに辛いと言ったからと言って辛くなくなるわけじゃないじゃないですか、痛い苦しいと言ったところで痛いものは痛いし苦しいものは苦しいと思うんですよね、なら何も言わないほうがよくないっすか?何か難しい話してます?誰かに助けてほしいと思うこと自体愚かです、諦めてください(笑)

なんだろう、つらいのを我慢すれば報われるみたいな考えも辞めたほうがいいっすよ。努力は報われるとか幻想です、諦めてください、はい。現に報われてなくないですか?現実見たほうがいいっすよ。

逃げるが恥だが何とやらっていいますけど、あれができるのってごく一部の人間だけなんですよね。あなた働けなくなったら死にますよね?じゃああなたに残されたのは、つらいのは報われない、でもそこにいるしか生きていけないことを認めることじゃないですか?変に幸せを望むから苦しいんじゃないですか?

なんだろうな、死にたいとか死にたくないとか以前に、人は結局死にます。だったらそういう感情全部無駄じゃないですか?死にたきゃさっさと死ねばいいと思いますよ、死ぬのがこわいという不安は、死ねばなくなりますよね?そんな難しい話してないと思うんですけど」

この論破は私にのみ向けられる。そんなことないって怒鳴りつけたい。でも気力がない。

土日になるとびっくりするくらい身体が動かない。寝返りを打つのもスマホのスクロールさえもうまくできない。気持ちばかり焦り不安が募り自分が嫌いになり、こんな自分のことは誰も好きではないとまたパニックに陥る。早く転職しなきゃ引っ越ししなきゃ動かなきゃアウトプットしなきゃ、思考の海におぼれて息ができない。

「結局あなたは何がしたいんですか?」

思考がうまくできなくなった頭で考える。

安心してごはん食べたい、眠りたい、小説を書きたい、文章を書きたい、好きな人たちと会いたい、話したい。

でもそのために仕事が必要だ、できるだけ健やかに精神を保てる仕事が、そのために大切なのは安定性であったり仕事内容だったり、でも仕事は自分のニーズの押し付けではいけない、相手のニーズに応えるのが仕事で、それができない人間は必要ない。文章を書きたい、でもそれだけでは生きていけない。

限界だ、限界なのに、休む場所も帰る場所もどこにもない気がしてしまう、わからない。

米津玄師の歌詞から「遠くへ行きたい」が少なくなったのはいつからなんだろう。もう遠くへ行く必要がなくなったんだろうか。

私はいつまで遠くに行きたがってるんだ。
どこかにきっと自分と生きてくれる人がいるなんて馬鹿げた幻想を、いつまで引きずってるんだ。

本当の地獄は本人にしかわからない。誰かが呟く「死にたい」の行間を、完全に理解することはできない。輝かしいインスタの投稿の、楽しそうなTwitterの投稿の、行間をすべて理解することはできない。

私は埋めたかった。言葉にできない領域を。
かたちにならない感情を、できるだけかたちにしていたかった。

私の中には、自分でも把握しきれていない「伝えたいこと」があって、それを伝えようと、ずっと藻掻いている気がする。生きているうちにできるだけ語り尽くそうと、必死で。

理解できない行間をできる限り埋めるために言葉があるとするなら、その行間をつくるのもまた言葉で、私は言葉も行間も愛せる人間で在りたくて、そのために言葉を紡いでいた。

私は何かを望んでいい人間なのだろうか、私は幸せを願っていい人間なのだろうか。望んで願ったその先にあるのは新たな地獄なんだろうか、わからない、わからないわからないわからない。

愛していたいこと愛されたいこと

捨てられないまま赦しを請う

大体の感情は小説家やアーティストによって言語化されているのに、まだ言語化されていない感情がある。誰にも救われないなら私が救うしかない。なんてくるしいんだ。くるしいくるしいくるしいくるしいでもそれでもそれでもだからこそ、書かなきゃいけないんだ、それだけは、それだけは信じていたくて、痛くて、どうしようもなくて痛い。

「あなたはあなたの地獄と心中するしかないって早く気づいたらどうですか?」

気づいてるよとっくに。

私のなかのひろゆきが言っていたことで唯一確かなのは、死にたいとか死にたくないとか、そんな感情に関係なく死は訪れるということだ。

それは明日かもしれない、もっと先かもしれない。
だからこそひとはその瞬間まで生きることしかできない。

だからこそ書き残していたいけれど、書き残したことが何になるのかなんてわからない、たぶん何にもなれない。
ゴミになって焼却されるのか、雨風に打たれて風化していくのか、嘲笑われふみにじられて終わるのか、死んだらもうわからない。

大きくなくていい、
手の届く範囲の、
大切な人たちのそばで、
幸せに生きたかった。

帰りたかった。

それだけだった。
叶わないとしても
願っていたことだけ
残しておきたかった。

愛していたいこと 愛されたいこと

望んで生きることをゆるしてほしい

まさかまだ、私は生きようとしているのか。

だからおどりばを書いているのか。

出典:米津玄師「恋と病熱」2012年

しづく

夕暮れと夜の狭間で息をしています。 迷子のちっぽけな小説家です。

プロフィール

関連記事一覧

  1. この記事へのコメントはありません。