おどりばと雨と傘ときみ

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”ああ、そうか。
私は今「おどりば」に立っているんだ”
今回は、5月の日々の断片と、雨と、傘と、おどりばのおはなしです。
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某日、朝。目をこすりながら外に出た。数ヶ月前から、寝ることへの恐怖でうまく眠れていない。とにかく朝日を浴びたかった。
近くのパン屋さんからいい匂いがして足を止める。思わず「メロンパンください」と言ってしまう。品物を渡すとき、店員さんが「焼き立てです」と付け加えてくれる。嬉しい。抱きしめるとやわらかくてあたたかい。しあわせな気持ちで帰路につく。
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某日。諸々の手続きをしに市役所や警察署、病院や銀行を行ったり来たり。対人恐怖をこじらせているからかずっと動悸がしていたけれど、出会う人皆やさしくて、やわらかい気持ちになる。
「人との巡りあわせ」は「運」と「選択」の2種類あると思う。
自分で選べないものと、選べるもの。たとえば、路上で怒鳴られたとか絡まれたとか、病院の先生との相性が悪かったとかは「運が悪かった」出会いだ。
人間として人間と生きる以上は、人間関係の悩みは尽きない。「ガチャ」と呼ばれる表現があまり好きではないけれど、自分の周りにどんな人間がいるかは人生を大きく変える。
選べる「巡りあわせ」もある。それは、自分で生きる場所を選ぶことで起こる。自分にとって息のしやすい場所には、同じ酸素濃度、同じ深度の場所で息をしている人がたくさんいる。きっと。
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某日。今日は動悸もひどいし気持ちも上がらんしだめな日だ、と思い部屋を出ると、シェアメイトと遭遇。「コーヒー淹れますか?」と聞かれ反射的に頷く。カフェインが苦手な私のために買ってきてくれた、カフェインレスの豆を挽いてくれる。
その流れでマリオカートをやる。普段ゲームをやらないから、新鮮で楽しい。「私ミニマリストだから、持ったアイテムすぐ使っちゃうんだよね」と冗談を言った後で、ほんとは物を捨てるの苦手だなと思った。引っ越しの時、藤井風の「きらり」を流し、「何も~かも~捨てて~く~よ~」と口ずさみながら断捨離をしたつもりだけど、それでも結構な量の荷物になった。あまりものは持たない方がいいな。本当に大切にしたいものを見失いそうになるから。難しいのだけどね。マリカの順位は5位だった。
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時は戻り、引っ越してきた日のこと。直接会うのは1年以上ぶりだった友達が連絡をくれて、突発的に会った。今まで何度も通った道沿いにあるのに全く知らなかった公園を教えてもらった。コンビニで買ったスムージーを飲みながら、会っていなかった分のことを話した。日が落ちる時間になっても話し足りなかった。「友達とは、どんなに長く会っていなくても、会えば昨日の続きのように会話を再開できる存在である」。これもまた、私のある友達の言葉だ。
人は鏡だというけれど、中々自覚することは少ない。けれどこういう時、私の使う言葉や考えは、周りにいてくれる人に影響を受けているのだなと思う。だから私のことを好きだと言ってくれる人に対しては、まっすぐに、いやそれ以上に、私も好きだよ、ありがとう、と思う。
愛情や優しさはきっと、一方的に与えられている。受け取った側がそれを覚えていて、また誰かに優しさを返す。そんな風に世の中が回っていったら、素敵だなと思う。
その日は一緒に蟻の観察をして、知らなかった詩をひとつ教えてもらって、またすぐ会おうねと言って別れた。
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雨降りの某日。あまりに動悸がひどかったので、近くの病院に行った。病院を出ても雨は止んでいなかった。傘は持っていなかった。
私は結構、ちょっとの雨なら傘を差さずに歩いてしまう。この日もそうだった。
横断歩道で信号待ちをしていたら、背後から傘を差し出された。振り向くと綺麗なマダムがいた。
「濡れちゃうよ」
その言葉で、自分がかなり濡れていることに気づいた。思わず、誤魔化すように「ありがとうございます、傘忘れちゃって」と笑った。「急に降ってきたものねえ」。マダムの言葉はやさしかった。
信号が赤から青に変わり、横断歩道を渡り終えるまでの1分間。
私は知らないマダムの傘の下で、雨から守られていた。
「私はそこを左に行くわ」
「私まっすぐなので、ここで」
「ほんとにありがとうございました」
「いえいえ。風邪引かないでね」
少しの言葉のやりとりの後、マダムが去っていく。私も歩き出す。
さっきよりも心なしか体温が上がったような気がする。人は時に残酷だが、時に何よりもあたたかい。
私はきっともう、あの人と出会うことはできない。
だからこそ、誰かが雨に濡れていたら、傘を差しだせる人で在りたいと思った。
優しさを、優しさと受け取れる人で在りたい。
愛情を持って接せられた瞬間を忘れずに、返せる人で在りたい。
これも、周りにいてくれた人から得た知見だ。大切な、これから先何度も思い出すであろう知見。
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刺激のある毎日の中で、「私は人に対し、苦手だなと感じることが苦手だ」と気づいた。
私は、どんな人のことも、世の中にあるどんな思いも、否定しないように生きている。否定したくない。否定するのがこわい。
しかし私も人間なので、苦手だと感じたり、傷ついたりすることもある。でも否定はできない。くるしい。そんなマイナスな感情を抱く自分のことをゆるせなくなってしまう。
その状態を肯定できるようになったら楽だなと気づいた。だから最近、思考の練習をしている。
傷ついた時、「ああ私は今こういうことで傷ついているんだな、私にとって嫌なことはこういうことなんだな」と、感じたことを否定しない練習。
24年も生きていて、「感情を押し殺すと苦しい」というのが、辿り着いた真理である。当たり前かもしれないけれど、感情は押し殺すものだと思っていたから。
否定しないことと、自分の感情に素直になることは別だ。そして、「苦手」と感じること自体は、その人を否定することではない。
その人の一部分が、私とは「合わなかった」というだけだ。
人間関係に悩むのは、人間が好きだからだろうなと思う。30歳になるまでに文鳥か猫か人と暮らしたい、とずっと言っているけど、本当に暮らしたいのは人ですよ。私は人間がこわいくせに、人間が好きなのですよ。というか、そう思わせてくれた人たちのことが好きなのですよ。
柔軟な「肯定」ができるようになりたいなと思う。完璧にはできなくても。くそー!!と思うことだってあるけど、そういう時は素直にくそー!!って思ってもいいんだろうな。と思いながら、サイゼリヤのドリンクバーで、アイスティーにガムシロを2つ入れて飲んだ。あま。
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そしてまた、某日。
階段を上がっている時、息が切れたのでふと足を止めた。その時視界に映った景色に見覚えがあるのを感じた。上を見上げ、下を見下ろし、そして気づいた。
私は「おどりば」に立っていた。
はっとして、思わずシャッターを切った。

このおどりばで、一体どれだけの人が「人生のおどりば」に思いを馳せたんだろうかと思った。
おどりばには、一人でしか立てない。
自分の人生は結局のところ、自分で生きるしかないのだから。
でも、隣に別の階段が見えたら?
階段の種類は違えど、おどりばで立ち止まったり、階段に足をかけたり、進んだり、立ち止まったりしている姿が、近くで見られたら?
一人だけど一人じゃない、と思えないだろうか。
あなたのことも見てるから、そこで私のことも見ててよ、という気持ちになれはしないだろうか。
もしかしたら、おどりばをつくってくれた三人も、同じようなことを、おどりばで考えてくれたのだろうか。
あなたも私もあの人も、変わっていく。
どんなに年を重ねても環境を変えても、考えて生きていれば悩みは生まれる。
それが人生なのだとしたら。
大切なのは、変わっていくこと、悩むこと、進んでいくこと、立ち止まること、そのすべての過程と、それを経験している自分への「肯定」なのではないか?
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ここが私の、新しいおどりば。
高校生の頃とも、大学生の頃とも、昨年とも、昨日とも違う踊りかたで、私は踊る。
私の手で、私の足で、私の心で、
私の言葉で。
今日も。
よければ一緒に、隣で踊っていてくれませんか。
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