思考の一側面

住人

言葉がひとを生かすことも殺すこともあることを、「書く」ことが生業となった今、深く再実感している。

私はたったひとつの言葉で死の淵から救われた経験も、たったひとつの言葉を十年以上引きずって未だ苦しむこともある。

ひとつの言葉に頭を支配され、気づくと見動きがとれなくこともある。
と思えば、ひとつの言葉に心の奥底から救われ、深い傷に触れてもらった気がして涙することもある。

私の人生において「言葉」はあまりにも大きな存在で、救われたり半殺しにされたりしながらも、思考の隅に追いやることはできない。

自分の思いをとにかく伝えようと、言葉を尽くしていた時期もある。誰かに見つけてほしくて、私はここにいるのだと叫びたくて、必死に文章を書いていた。Twitterとnoteに積み重なった思考の断片を見るたび、その痛々しいほどの強い思いを愛しいと思う。

自分が必死に生きていたことは、自分しかわからない。

相手から見れば自分は「だめ」だとジャッジされることもある。まさしく最近そういうことがあって、今までの努力を土足で踏みつけられた気がして、くやしくてくやしくて仕方がなくて泣いた。

でも、私だけは私のことを知っているから。
私がどうやって生きてきたか、どれだけ苦しんで、それでも必死で歩いてきたか、私が一番知っているから。

歯を食いしばる。あなたの言葉に殺されてたまるか、と思う。あなたがふみにじった私の人生を、私は幸せに生き抜くからなと思う。

とまで書いたところで、もう十分幸せなんだよ、と気づく。

好きな街に住んで、好きな仕事をしている。ここに至るまでの過程でも、現在進行系でも、色んな傷を負ったことで毎日人知れず苦しみと対峙しているのだけど、それでも、今の人生を愛している、と思う。

自己表現したい、という気持ちが薄くなった。
なくなったわけじゃない。
私も人間だしひとりのクリエイターだから、完全になくなることはないのだろう。

でも今は、誰かの思いを、伝わるかたちで代弁できる人で在りたいなと思う。
その人の深いところまで理解して、沈殿している言葉をととのえて、適切なかたちで世に出せる人に。

やっぱり一番わからないのは自分のことで、自分のことを誰にどこまで話せばいいかわからない。深層で話がしたい、と思う瞬間がよくあって、ああ私は救われたいんだなと思う。

日曜の朝7時半に、ベッドの上でとりとめもなく言葉を並べている。私の言葉は、どこかの誰かに、どんな風に届いているだろう。

私はこれから一体、どこへ行くんだろう。どこにも行けない、とひとりごちる。私はどこかへ行こうとしている?ねえここにいてはいけませんか。

どうせ人は生まれてくる時も死ぬ時もひとりなんだ。どこから来てどこへ行くのか、こんなに科学が発展してなおわからないのだ。

だからせめて、生きている、と自覚できている間くらいは、好きな人と、好きなように、できるだけ楽しく生きていたい。それだけなんだけど、それってすごく難しい。そうあれたらいい。

起承転結も何もない文章になってしまった。
でもたまには、というかここでくらいは、いい文章とか考えなくたって、いいじゃないか。

だって人生は、物語のようにうまくはできていないのだから。

だからこそ物語が必要な時も、あるんだけど。
だからこそ、書いているのだけど。

しづく

夕暮れと夜の狭間で息をしています。 迷子のちっぽけな小説家です。

プロフィール

関連記事一覧

  1. この記事へのコメントはありません。