灯火を見た

住人

山の上で火を見た。
久しぶりに、自然のなかで火を見た。

その日は土曜日で
街はびんずるの予感で溢れていた。

MIDORIのトイレには
浴衣を着た女子高生たちがたくさんいた。

「〇〇くんからいいね来た!」と
楽しそうにはしゃいでいて

みんなとてもきれいだった。

*

最近いろんなことがあって
寝込んだりパニックになったりすることが
続いていた。

誰にも言えなかった。

何かしたいという欲望も
枯渇していた。

刺激がこわかった。

会いたいと言ってもらったとき
会える状態でない自分がいやだった。

くるしかった。

理解されたい
と思っていた時期もある。

でも
すべてを理解されるなんて
思えないくらい
大人になってしまった。

私だって誰かのことを
すべて理解することはできない。

その事実がどうしようもなくかなしくて
打ちのめされていた。

だからせめて
話を聞ける人でありたかった。

聞くだけじゃなくて
対話できる人でありたかった。

ありたい、と思う姿は同時に
自分がいまいちばん求めている存在だった。

そんなときに
キャンプファイヤーが行われる
と聞いた。

ベッドの上で泣いていた私は
これだけは絶対に行きたい
と思い
涙を拭いてメッセージを送った。

*

当日。

雨が降ると聞いたので
晴れるといいなと思い
てるてる坊主をつくった。

運転ができないので
車で連れていってもらった。

仕事以外で人と会うのがままなってないのに
大丈夫だろうかと 
緊張していた。

人と会うこと話すことへのハードルが
すごく高い今
パニックを起こして迷惑をかけないか
不安だった。

山の上に着いた。
街よりすこし涼しかった。
草と、夏と、夕方の匂いがした。

そこには

久しぶりに会う人も
初めて会う人もいた。

そこにいる人たちは
自然に
あまりにも自然に
自分と接してくれた。

だから私も
自然と話ができた。
心地が良かった。

アウェイだったかもしれないけど
それを感じないくらい
その場の空気感は

心地が、よかった。

*

火は大きく燃えた。
少し曇った夕空に届くくらい
高いところまで燃えた。

それを
ひとりで
みんなで
眺めた。

ギターを弾く人がいた。
写真を撮る人がいた。
音楽を聴く人がいた。

時々誰かと話したり
またひとりになったり
火の周りで私たちは
ひとりだけど一緒にいた。

*

久しぶりに会う人と話すとき
「いろいろあってさ」と
笑いながら言うことが多い。

その先は中々話せない。

きっとみんなそうなんじゃないか
と思う。

「いろいろあってさ」という8文字の中に
きっと
人知れないかなしみや傷や葛藤を隠している。

日々選択を、決断を迫られて
悩みながら、ひとつひとつ選んで

今日まで生きてきたのだと思う。

私も
あなたも
あの人も。

そういったいろいろを
笑顔でそっと拭って
この人はここにいるのかもしれない。

本当は、いろいろ、を話したい。
あなたのいろいろ、を聞きたい。

そんなことを思う私は変なんだろうか。

そんなことを思ったところで
受け皿なんてどこにもないんじゃないか。

でも

でも、

そう思って生きていたら、もしかしたら、とか。

火がぱちん、と花を散らして
思考が止まる。

*

その日は
いろいろを
話すことはしなかったけれど、

心の中で、
自分と、あるいは周りの人と
静かに対話をしているような気がした。

いろんなひとのいろいろを飲み込むくらい

自然は大きくて
火はあたたかくて

圧倒的な何かに
囲まれている感じがした。

心地が、よかった。 

途中から雨が降った。

やめやめと願ったけれど
大降りになった。

傘を差しながら片付けをした。
いっそびしょ濡れになりたくて
時々傘をおろして空を仰いでみた。

私が流す涙の一生分を
空はいとも簡単に流してしまうのだと思った。

でも火は燃えていた。

激しく降り注ぐ雨の中で
静かに燃え続けていた。

きれいだと思った。
すごく美しいと思った。

空には半月が浮かんでいた。

半分だけ闇の中で
半分だけ光って
私たちをみていた。
ただみていた。

虻に刺された。
スプレーをかけてもかけても刺された。

コンセンサスなしで刺してくる存在には
勝てないと思った。

勝ち負けという概念すら
ここには存在しないのだと思った。

彼らの住処にお邪魔しているのは
私たちなのだと思った。

人間本位の悩みばかり
人間は抱きがちだと思った。

仲良くしようぜと思った。
でも刺された。

それでよかった。

*

最近観た『大豆田とわ子と三人の元夫』というドラマに、こんな台詞があった。

「幸せな結末も悲しい結末もやり残したこともない。あるのはその人がどういう人だったかっていうことだけ」

「人生にはふたつのルールがあって、亡くなった人を不幸だと思ってはならない。生きてる人は幸せを目ざさなければならない。人はときどきさびしくなるけど、人生を楽しめる。楽しんでいいに決まってる」

「大豆田とわ子と三人の元夫」脚本:坂元裕二

私たちは今を生きていると同時に、過去を、未来を生きている。過去の自分も今の自分も未来の自分も、同時に存在する。

そんな風に感じて、それは私にとって静かな衝撃で、静かに涙が流れた。

過去との決別とかトラウマを乗り越えるとか明るい未来を目指すとか今にフォーカスして生きるとか、そういう概念を超えて、
ひとつの救いのような考え方だと思った。

私は今からだって、泣いていた過去の私を抱きしめにいけるし
もう届かない存在に触れることもできる。

ただただ
救いだった。

*

何度人間不信になっても
私は人を信じたい。

ひとりでも大丈夫だけど
誰かと生きていたい。

わかりあえないとしても
とりとめがないとしても
結論がでなくても
対話をして生きていたい。

それからすこししたある日

落ち込むことがあったとき

死にたい
ではなく

楽しかった日に戻りたい
と思った。

ああこれが
救われているということなのか 
と思った。

うまく言えない
伝えられない。

言葉にすると解像度が落ちることは
自分が一番よく知っている。

でもだからこそ
思ったことは伝えたいと思う。
会いたい人には会いに行きたいと思う。

迷惑かなとか申し訳ないなとか
そういうことばかり考えてしまうけど

それでも。

火は思い出せば
いつだってあの場所で燃えている。

ありがとう。今までも、今も、これからも。

しづく

夕暮れと夜の狭間で息をしています。 迷子のちっぽけな小説家です。

プロフィール

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