旅路で

住人

最近、嵐の相葉くんが好きだったことを思い出した。

執筆のBGMを全部彼のソロ曲にしたら、感傷の波に呑まれすぎてしまって困った。

2007年の夏に行われた『コトバノチカラ』というライブが一番好きで、そこで彼が歌った『Friendship』というソロ曲が大好きだった、とここまで回想したところで、

「2007年から、私は15年も生きたのか」
と愕然とした。

*

嵐が休止すると聞いたとき、真っ先に思い浮かんだのは「人生のBGMが途絶えてしまう」ということだった。

1999年にデビューした嵐と1998年に人生デビューした私は、ちょうど生きている時代が重なっていた。ゆえに、彼らの音楽と出会うのは必然だった。

私と嵐を出会わせてくれたのは母親だった。母親が嵐を好きだったため、車の中には嵐がいつも流れ、テレビのチャンネルは嵐の出る番組に合わせられていた。妹と3人で嵐のレギュラー番組やライブ映像を繰り返し観ていた。

私が家族とうまく関係を保てなくなってからも、時折帰省すると、ブルーレイには嵐の番組がたくさん録画されていた。お気に入りのミュージックステーションの回はいつまでもいつまでも残り、容量を圧迫していた。会話がなくなっても、車の中にはいつも嵐が流れていた。

嵐が歌わなくなったら、家族と本当に繋がりがなくなってしまう気がした。私はその時21歳かそこらで、まだどうしても、幸せだった頃に帰りたいと思ってしまっていた。戻れないと気づくのがこわかった。だから母親に電話をかけた。

母親も落ち込んでいて、これから先、嵐を超えるグループには出会えないと思う、と言った。

そのとおりだ、と思った。
嵐と同じ熱量で何かを、誰かを好きになることはもうできない、と思った。

*

けれども私は、生きていく過程で色んなことを、色んな人を好きになった。

俳優の中村倫也氏のエッセイを読んでからは、彼のことが大好きになった。
学生時代に出会った人からアルバムを借りたりブログを読んだりしているうちに、米津玄師さんのことが大好きになった。
眠れない夜にYouTubeを眺め、お笑いや周囲の人への思いの強さを知るうちに、芸人の粗品さんのことが大好きになった。

けれど、嵐を好きになったときとは全く違う感覚だ。
思いに優劣はない。
ただ、人生の様々なフェーズで、そのときどきの感性で、何かを、誰かを、好きになることはできるのだと思った。

私はもう、10歳のときの感性にも14歳のときも感性にも、1年前の感性にも戻れない。恋愛を知らなかった頃と同じ温度感で恋愛小説は書けないし、人を失う恐怖を知らなかった頃のような勇敢さで人と接することはできない。喜びもかなしみも色んな種類を経験し、年を経るほど人間関係に臆病になった。自分のエゴには蓋をし、みんな幸せでいてくれたらいい、なんて思い、優しさという仮面を被ってひたすら何かに怯えるようになった。

仕方がない。
生きていていろんなことがあったのだから。
感性が、価値観が、少しずつ変わっていくのは当たり前だ。それを嘆いても仕方がない。

だからこそ願わくば、
変わっていくなかで、変わらずに好きでいられる人、好きでいてくれる人を大切にしていたい。

過去には戻れない。気持ちがどれほど後ろを向いても、足は未来にしか動いてくれない。そのちぐはぐさに苦しみながらも、日々をひたすらに生きていくしかない。

20歳から先はないと思っていた私の人生は、何度も終わりそうになりながらも継続している。俄に信じがたいけれど。

私はこれからどんな風に人とかかわって、人を思って、どんな眼差しで世界を見つめて生きていくのだろうか。どんな好きなものと出会い、どんなことを好きでい続けるのだろうか。

生きて、生きて、生き抜いて、

もしかしたらいつか出会うかもしれない自分の子供に、自分の好きなものを、自信を持って好きと言えるだろうか。

いつでも、誰に対しても、「私は自分の選んだ今が好きだよ」って、ちゃんと言えるように生きたい。

しづく

夕暮れと夜の狭間で息をしています。 迷子のちっぽけな小説家です。

プロフィール

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