やめるときも、すこやかなるときも
「やめるときもすこやかなるときも、そばにいてくれる人」で在りたい、と思って生きている。
生きていると、どうにもならないことと出会う。ことばに到底できない絶望と対峙する。弱音を吐けば弱いと、心を病めば病気と、吐き捨てられる世の中で、誰にも言えないくるしみを抱えて生きていかなければならない。そんな、病めるときに、そばにいてくれる人がいる、それだけで、それだけのことで、人は、生きていられる。だから私は、そういう人で在りたい。どんなに病んでもいいよ、嫌いになんかならないよ、うるさいなんて言わないよ、好きなだけ泣いていいよ呪っていいよ、私は、私は、そばにいる。
健やかなるときも、そばにいてくれる人は、本当の友人だ。逆はよく言われるけど。人は不幸と同じくらい、人の幸福に弱いらしい。頑張れば頑張るほど妬まれ、表層だけ切り取って評価され、SNSで前向きな投稿をしてもアンチコメントがくる、そんな世の中だ。だからせめて、自分は、大切な人の幸せを、いついかなるときも喜べる人で在りたい。みんな幸せになってほしい。願わせてほしい。惚気けていいよ自慢していいよ、頑張ったことは頑張ったって言っていい、可愛くてごめんでいいんだよ、あなたがすこやかなら私は嬉しい。
やめるときもすこやかなるときも、すべて受け入れるためには、凪のような、心が、必要で。嵐の中にいる自分にとって、それは、とても、困難で。それでも、ただしく在ろうと、自分の思うただしさを貫き通すのは、意思の領域で。
やめるときもすこやかなるときも、私は、あなたのそばにいたいと、心から言えるような、大人に、なりたい、なりたい。
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