18歳の春の書きかけ

18歳の春、大学生になった。

坂の上のアパートを借りて、一人暮らしを始めた。

窓からは隣のアパートの駐車場と、その向こうに街が見えた。

解放感と孤独感を同時に抱いていた。期待と不安の配分は一日の間常に変動していた。

その部屋で、小説を書いた。

実家から持ってきた使いかけの原稿用紙、使い古したシャープペン。

受験期、全く小説を書いていなかったのにことばは、すらすら溢れた。外に出るのを待っていたみたいに。

私が書こうとしたのは、光の含有量が多い水色の空みたいな話だった。春と、穏やかな「死」を感じさせる物語だった。

でも、完結することはなかった。

そのあとすぐに、新歓や入学式、オリエンテーションがあり、日々が一気に騒がしくなったからだった。

人見知りを隠して新歓に行き、SNSを交換し、新しい友人と時間割を決めあった。トーク画面に並ぶ名前が増え、一日の「コマ」が埋まっていった。

書きかけの原稿用紙は、それから4年間、引っ越しのタイミングまで触れられることがなかった。

今の私に、あの物語の続きは、書けるだろうか。

最近、「学生の頃の自分」を思い出そうとした。でも、画像フォルダをさかのぼっても、「もう戻れない」という圧倒的な事実をつきつけられるだけだった。

あの頃私を好きだと言ってくれた人は、今の私を見てなんていうだろうか。まだ好きだと言ってくれるだろうか。好きだったのは18歳の頃のあなただった、と言うだろうか。あるいは。

好きなクリエイターが、「昔のほうがよかったと思うんなら、そのときの自分を見てくれ、自分は変わっていくから」と話していた。自分を好んでくれる人に、「昔のほうがよかった」と言われるくるしみが、今になって、やっと、わかる。

人は変わっていく。私も。あなたも。あの人も。

弱かった私のこと、弱い俺のこと、強い部分のこと、書く文章の種類、色合い。幸福と不幸のバランス。

思うに「愛」とは、「どんなふうに変わっていっても、その前も過去も今もすべてあなた自身だ」と受け入れることではないのか。そして「関係性」とは、双方がこの認識を持ってこそ、成り立つのではないか。

人からの評価で、自分を閉じ込めてしまって、いいんだろうか。そうやって誰からも嫌われないように、誰のことも不快にさせないように、望まれることに応えて、望まれる姿を演じていれば、私は救われるんだろうか。

文章、というのは、一種の呪いだ。書いた人間をそこに閉じ込める。でも、同時に祈りでもある。だから、まだ、書いている。

あなたがこれまでどんな人で、今何を大切にしていて、これからどう変わっていくのか、わからないけど、すべてあなた自身として、私は受け入れたい。

ずっと、そうしてほしかったから。不幸な私じゃなきゃ好きじゃないなんて、言わないで。ポジティブな私は私じゃないなんて、思わないで。私の表層だけ、一部分だけ見て、それを永久評価に、しないで。

変わっていくことも、変わらない部分も、受け入れてもらえたとき、私は、ほんとうに、救われる。

執筆時原稿用紙派だった私は、いつしかWord派になった。そこからGoogleドキュメント派に移行して一年が経つ。それでも時折、原稿用紙を使いたくなる。未完結の小説の束を、まだ、捨てられない。

変わっていくあなたも変わらないあなたも、私はずっと好きだよ、と、大切な人たちに言い続けたい。あなたの大切なものをずっと大切にしてほしいし、苦しかったら身軽になっていい。私はあなたの核みたいなものが好きなのだから、どうか、あなたがあなたの望むように変わっていって、そのままでいて。

それを伝えるために、書いていたい。今は。

しづく

夕暮れと夜の狭間で息をしています。 迷子のちっぽけな小説家です。

プロフィール

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