”いい生徒”と「ぼく」
「4月のお前とはかかわりたくなかった」
2年前のちょうど今頃、大学院の院生室で5人しかいない同期のうちの3人から同時に言われた言葉。
この言葉を言われた時、「今までの自分ってどんなにほかの人から疎まれてた存在だったんだろう」と、過去の自分を極度に自己否定した。
この時、同期がぼくにこの言葉を言った理由は、なんでも4月まで(学部時代を含めて)のぼくは、ほかの人の話は聞かずに、自分の話したいことは勝手に話すが、人の話は全然聞かない人だったらしい。正直ぼくにはそんな感覚はなかった。だから、なおさら質が悪かったらしい。
確かに思い返せば、学部時代のぼくは、同じコースの同期とはみんなでのご飯や遊び、飲み会にこそ誘われることはあれど、個人的な飲みや遊びに誘われることはなかった。等々、言われてみれば・・・と思い当たる節は多々あった。
そこではじめてぼくは、自分がいかに”コミュニケーション能力”を持っていないのかを思い知った。ここでの”コミュニケーション能力”とは、なんというか、雑談力とでもいうものだろうか、言わばフォーマルでない、「普通」の会話。
大学院のこの時期までぼくはこのことに悩むことはなかった。なぜなら小学校でも中学校でも、人前に立つときにはちゃんと原稿を用意するし、アドリブでもある程度受け答えはできていたから。
もっと言えば、小学校から学部までのぼくはいわゆる「優等生」「まじめくん」で、硬い話をする機会は多々あったし、こなせていた。学校のテストだって、問題集を徹底的にやれば点数は取れるし、授業でも発言するし、授業後の質問もする。自分が今先生という立場になって改めて思うが、”いい生徒” だったと思う。
学部時代も、食堂で空き時間にだらだらと友達と話をするくらいなら課題を早く終わらせようと考えていたし、課題についてわからないことがあるときだけ学部生が集まる演習室に行き、そこでスマブラをする友達を片目にそそくさと帰っていた。
そんな自分をぼくは、日本の教育に型通りはまって出来上がった人間、と思っている。言われたことは忠実にやれるけど、自分で考えてやることは苦手。決まったフォーマットに沿ってやることはできるけど、アドリブで上手い返しはできない。そして、まじめな話はできるけど、目的もない雑談はできない。
そんな風に考え始めて
(日本の学校でいう)”いい生徒” ってなんなんだろう
大学院での2年間、もっと言えば教員になった今でもこの問いがぼくの中に常にある。
中学の同期でも、学校の勉強はできなかったけど、ノリの良さと人柄で某テレビ局に入った人、美容師として生き生きと輝いている人、大学で出会った法律にはまってその道に進んだ人、自分の好きな海外を回っている人、そんな「学校の勉強は苦手だったけど、大人になったら生き生きとしている人」がたくさんいることを、今のぼくは知っている。もちろん、勉強できた子にそういう人がいない、というのではない。しかし、ぼく個人で考えると「勉強できたこと」「いい生徒」であったことは、今「いきいきとする」ことにはつながっていないように思ってしまう。むしろ、マイナスだったとさえ思う自分もいる。今の自分にとって、自分が受けてきた「学校の勉強」は、ただ今の”教員”という仕事をするための道具・資格、そんな風に思う。
今の自分があることをすべてがすべて自分が受けてきた学校教育のせいにするわけでもないし、 そんな時間があったから今の自分がある、とも今は思えている。しかし、どこか「そんな今の自分でいいんだ」と自信をもって思えない自分もいる。
「教員」という仕事を始めてまだ数か月。まだまだわからないことだらけで、偉そうなことは全く言えない。けれど学校教育の現場に携わる身として、今の学校教育は徐々に北欧をはじめとするオールタナティブな教育の考え、コンテンツではなくコンピテンシーを求める教育へと舵が切られているし、現場でもその風潮を感じる。でも、やっぱりどこか”いい生徒” が”いい” という雰囲気を感じる。だからどうする、どうできる、というわけでもないが
こうして文章を書いている今も、どこかきれいにまとめなきゃ、なんかいいこと書かなきゃ、と思う自分がいる。これもまた、常に他人から評価され、”いい生徒” が常に求められる日本の学校教育にどっぷりはまってきた弊害、そう思ってしまう自分がいる。
そして、そんな自分に対して「そんな自分でいいんだ」と、自分に言い聞かせる自分がいる反面、どこか自信を持ってそう言えない自分もまたいる。
「自分なんて」というネガティブな自分と、「それでもいいじゃん」というポジティブな自分。今のぼくには、その両方がいる。でも、 どちらも確かに「自分」。それが今の「ぼく」。
”いい生徒”とはなにか という問いとともに、「ぼく」自身に対する捉え・考えもこれからも考え、更新されていくんだろうな、と思う。
あかっぱさんへ
あかっぱさんが、そんな思いを抱えていたとは知りませんでした。
でも、私から見たあかっぱさんは、いつも子どもたちのこと・教育のことを、誰よりも熱心に考えていらっしゃって、個人的には「こんな先生に出会っていたらなあ」と思える1人ですよ。
今は、きっとたくさんの迷いがあるかと思います。でもきっと、真面目で「いい生徒」だったあかっぱさんだからこそ、「いい生徒」について疑問を抱き、きちんと考え直すことができて、子どもたちと真摯に向き合えるのだと思います。素直で努力家のあかっぱさん。私は心から応援しています。
しーちゃん、コメントありがと!!!
そういうことを言ってくれるってすごくうれしいな!
根はめっちゃネガティブだし、めちゃくちゃ人と比べてるし、そんな自分がまた嫌だし・・・
でも、前はそれしかなかったんだけど、今はそれとは別次元で「それでもいいか」「それもご愛嬌」と思える自分もいたりして。
プラスにとらえれば”いい生徒”だった「おかげ」で今の自分があると思う。
それを「おかげ」ってできるかどうかって、結局これからの自分の過ごし方次第だよねー
また、話そ!!