「教える」ということ
現在わたしは、東京都でフリースクールを運営しています。
フリースクールというのは、何らかの事情で学校に行かない/行けない人が通う民間の教育施設。最近だと見聞きする機会も増えてきたと思うのだけれど、いかがでしょうか。
わたしはそこで、お喋りしたり、トランプしたり、勉強を教えたりしています。
もともとは教師を目指していたので勉強自体は苦ではないのですが、やはり「学ぶ」ことと「教える」ことは違うなぁ、と思います。
自分ではサラッと解ける問題ほど、かえって難しいです。「マイナス×マイナスはなぜプラスになるのか??」とか問われると、「ううむむむ……」とたじろいでしまいます。
しかしながら、先生が何人もいるわけではないので、苦手科目を誰かに任せることはできません。数学、国語、英語、理科、社会。全部教えます。
日本史とか、高1くらいで止まってるんですけれどね。なんてこった。
通う子は中1から高2までいるので、範囲もバラバラ。
同時に二人の子に対して教えるような時は、もう頭の中はフル稼働しっぱなしです。
フリースクールを立ち上げて1年と少し、あらためて「教える」ということを考えてみたいな、と思ったので、今日はそれをテーマに書いてみます。
教える=道順の提示
大前提として、わたしは、「教える」とは「道順を提示すること」だと考えています。
ゴールを教えるのではなく、先に歩いてゆくのでもなく、連れて行ってあげるのでもなく。
道順を示すだけにとどめて、あとは本人が自分の足で歩むのを見守る。
そんな役割。
道順を示すには、今いる場所を把握しなくてはならない
いきなり地図を渡されて読める人は希少です。
多くの人は、まず地図の読み方を知り、自分がいる場所を見つけ、目的地までの道のりを確認します。
同じように、教える側もいきなり教えることはできません。まずは知識を得て、相手がいる場所を把握し、目標までの道順を確認します。
この「相手がいる場所を把握する」というおこないを疎かにしてしまうと、まったく見当違いの道順を提示してしまいかねません。
例えば少し道を戻って再確認したり、ちょっとズレているのを修正したり。そういう細かな擦り合わせができるかどうかで、目的地に辿り着けるかどうかは変わります。
その子は今どこにいて、何に困っていて、どこへ向かいたいのか。
それを知ることができれば、その子に合った最適な道順を示せるはずです。
学びに「頂上」はないから
道順を教えるということは、目的地があるということです。
それは、例えば「大学受験に合格する」みたいな明確なゴールかもしれない。「将来の選択肢を拡げたい」みたいなイメージかもしれない。
どんなゴールにせよ、それはゴールであってゴールではありません。
「学び」とは、生涯続くおこないだからです。
学びには「頂上」がありません。
新しい問題を解けるようになったらまた次の問題に出合うし、知識を得ればそれを活用したくなる。それは「五科目」という枠には当てはまらないかもしれないけれど、それでも学びは続いていきます。
あなたが「学びたい」と思う限り。あなたが好奇心を持つ限りは。
だからわたしたち指導者は、「道順を示す」と共に「道の探し方を教え」なければいけないし、「学ぶことの楽しさを伝え」なくてはいけません。
いつまでも、わたしが教えることはできないから。
きちんと自分自身でいまいる場所を知って、ゴールまでの道のりを見つけられるようにしないといけない。そうなってほしいと願いながら、日々子どもたちに勉強を教えています。
学ぶって、楽しいよ。
道を見つけられたときって、嬉しいんだよ。
そんな純粋な気持ちを、これからも伝えていきたいものです。
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