落ち着いて
約1年前。世の中からいろいろと消えた。
マスク、紙類、飲み会…。
幸いにも、マスクは毎年の花粉症対策で消える前から徐々に蓄えていた。
紙類は、地元のホームセンターの底力の恩恵にあずかった。
飲み会は…、消えたままだ。
至るところで、消えた消えたと騒乱状態になっているのを見聞きして思った。
「落ち着こうか。」と。
そして、思い出した。いまから10年前のできごとを。
でもその前に、いまから20年前の話をしよう。
その日は大雨だった。
母と2人で、新大阪駅から東京駅に向かうのぞみに乗っていた。
列車は、静岡県内を走行中、トンネル内で止まった。
雨量計が基準値を超えたため、運転を見合わせることになった。
周りの乗客は、デッキのほうへいそいそと駆けていった。
到着が遅れることを電話しに行ったのだろう。
列車は、すぐに動くだろうと高を括っていたが、全く動かない。
1時間を過ぎたころだろうか。おなかがすいた。
母が、車内の売店へ行くも何もなかったらしい。
そういえば、デッキのほうへいそいそと駆けていった方々、何か持っていたなあ。
「落ち着きすぎたようだ。」
いまから10年前のその日、私は兵庫県にいた。
午後。テレビの画面を見るとすぐに、とんでもない光景が映し出されていた。
急いで家に電話をするも混線状態。とりあえず、新大阪駅へ急いだ。
もちろん、駅にもたくさんの人。いろいろと、諦めるしかない状態だった。
どうしたものかと考えあぐねていた。
気づけば17:00すぎ。一晩どうにか過ごさねばならない。
「落ち着いてするべきことを考えてみよう。」
そのとき、自然と身体が動いた。
近くの売店で一夜分の食事と水、乾電池だけを購入した。
必要以上に買っておく考えは全くなかった。
その後、幸いにも移動可能な距離にあった親戚の家に行くことができた。
翌日、ものすごく大変だったけど。その翌日も。
ああ、さらにその翌日は初めての長野市に降り立ったんだった。
2021年2月。
「落ち着いて。」と、自分に語りかける場面が多かった。
上旬にはかなり遅くまで対応に迫られる事案があった。
基本的に自分はテンパリ屋さんなので、落ち着いていないことのほうが多い。
でも、対応中、自然と、常に自分に語りかけていた。
「落ち着いて。」と。
中旬。身体の至るところが悲鳴をあげ始めていた。
もしかしたら…、という嫌な予感さえ沸き上がった。
でも、自然と自分に語りかけていた。
「落ち着こうか。」と。
下旬は、ほとんどをメンテナンスに費やした。
下旬の前半はメンタルを、後半はフィジカル的を。
おかげで、自然と実感できている。
「落ち着いている。」と。
しかし、この文章を記している前日、少し焦っていた。
「落ち着く」を軸にすることだけは決めていたが、中身は皆無だった。
どうしたものかと考えた結果、「いまからねるか、ねるかの2択」に至った。
結果的には、メンテナンス的な意味の<ねる>を選択した。
<ねる>前にふと思った。
「落ち着きすぎている。」と。
世の中は、目まぐるしい状況にある。
その速い流れに乗ることはとても大事なこと。そういう時代だし。
でも、芯の部分だけは、「落ち着いて」おきたい。
そうでなければ、何かを決めることも、それを行動に移すことも、
流れ作業になってしまう。
だからといって、結果的に<ねる>のは…、
いろいろな情報が整理されるからよしとしよう。
ここまで大層なことをつらつらと記してきましたが、
この「落ち着いて」という言葉を、
具体的な行動を示すことのできる言葉に置き換えられないのは、
私がまだまだ「落ち着いて」いないからなのでしょうね。
興味深い記事ですね。
わたしも基本、落ち着いていません。
飲み会は消えたというか、淘汰されたと思っています。
周りの目を気にせずやりたい大人たちは、なんやかんや言うて、やっている姿を目にします。
自分軸をしっかり持って、最高最善が「寝る」という選択肢もあるかもしれませんね。果報は寝て待て的な。
最後に……ふぁーーーー落ち着きたい、最悪、雰囲気だけでも落ち着きを放ちたい!!!
ゆうりさん
コメントありがとうございます。お返事が遅くなり申し訳ありません。
飲み会は淘汰されましたね・・・。
私も基本的には落ち着いていませんが、「寝る」選択の時だけは不思議と落ち着いているんです。
おそらく、脳が求めているのだと思います。
ゆうりさんのコメントを拝読して、私も雰囲気だけでも落ち着きを放てる人になりたいと思いました。