どん底のおどりば

生きるがわからない

今の自分はまさにそのような状態。

  • おばのステージ4のがん宣告
  • 自分の精神状態
  • 自分のやりたいこと、がなくなってしまった感覚

1つ目の話題は、本当に寝耳に水だった。まさかそんな、が人生の醍醐味だと思うけれど、こんなに早く、そして思っても見ない形で訪れるとは思わなかった。予測も予期もしていなかった。

1度、その苦しみを味わって父がそのようになって、自分の地盤を固めようとしている時に、この宣告。

沙都子や妓夫太郎が言っているように、神や仏がいるなら呪ってやる、私の人生を、あるがままの幸せで普通でいいから、平穏に暮らさせてくれ。そう、心の底から痛烈に批判したくなるような、胸が張り裂けそうな状況になった。なぜ、いじめていた奴らがのうのうと暮らしているのか私には今でも全く理解ができない。そいつらは、その中で業をクリアしたからそうやって生活しているのか?その頃の自分が犯した罪を償って社会で生活しているから報いが来て幸せになっているのか?受けた側の傷はその上からさらに覆い被さってくるというのに?

…と、何もかもを呪いぶち壊したくなる気持ちもさながら、ひとえに離れでの暮らしを叔母に任せて、祖母との老老介護を行わせてしまっていたその苦しみや辛さに気づいてあげられなかったことへの後悔や反省もさながら、このタイミングでなぜそうなってしまったのか。そのような思いもどうしても捨てきれず、医者からの冷酷だが配慮しようと言葉使いを気にしながら宣告される現実は、その日の雨と曇り空より数倍も重く早いスピードで私や母にのしかかってきたもので、かつ本人のショックも計り知れないものであったに違いない。

けれど、

死にたくない、だから頑張る

その勇気と、涙に込められた気持ちを少しでも応援して、これからの治療で何とか手を施せるように、今は願い毎日連絡をとり、行ける時に直接話してコミュニケーションをとり、常に前向きに願い続ける、ただそれだけ。残された私が、背負うべきものが大きすぎて、いや、当主としては必ず避けては通れない道すがら、その負担をシェアできるーできる環境にあるー人の少なさと孤独に苛まれそうになっている毎日。在りし日の父にも、話しかける体力すらどこへやら行ってしまったかのように、毎日廃人のように仕事をこなしたあとは様々な考えに圧倒され、何もできない日々が続いている。

> ここからは仕事の話だけど、的確な解決策を導くには圧倒的な経験値が必要な状況で、理不尽に頼った先に怒鳴られたり、指導ではなく感情に任されたものが振り翳されるのに、それがよしとされる社会の構造には、やっぱり何度考え直しても、心を入れ替えても、納得できないし、納得したくない。社会はそういうものだと誰が決めているわけでもないのに、集団になると一気に攻撃的になるその個人個人に全く信頼などおけるものか、とも思うし、ペルソナとパーソナリティを乖離させることが社会人としての最適解であることが通念である以上、自分はおそらく小さな頃に言われたこともあったけれど、生まれる時代を間違えてしまったような感覚を抱かざるを得ない。男女関係なく、この温和と協調のみのコンフォートゾーンの中にも成長があるという信念を理解する人なんていなくて、むしろSNSはそれを助長するかのように、何もかも自責で何もかも金と見栄と何をなしたかこそが命そのものであると、意図せずとも「一般人」が一般人足らないあくまでその個人の中で成功していることを見せびらかすような感覚ばかりの情報で、もううんざりしている。20代は良かったけれど、もう30歳過ぎてから、なおさらそういう次元で物事を判断したくないと思うし、けれどヒエラルキーはお金でどうしても図られてしまったり、名声や地位で判断されてしまう節があって、本当に生きる希望を失いそうになる。

私、が本当にしたいことは、やりたいことは、やっていて幸せ、嬉しい、そんなことは何なのか、わからなくなってしまった

早い段階から、ひとのありふれた日常以外はもういらないし何もしたくない、それ以上何も望まないしきつい状況にも身を置きたくないと思ってしまったのは、心をおらされてからで他ならない。これは、全くもって他責で不甲斐ないが、しかしそれは事実だから綺麗事で自責で自分で立ち直ろうとしても幾度も失敗していることが物語っている。つまり、その当時のじぶんには戻れないことも、今のフェーズが違うこともわかっているけれど、取り戻せないくらいまで遠くに来てしまったのと、取り戻せないくらいの傷口であることも同時に理解した。それは、有る事無い事言われた経験と、何をしても他人に邪魔される世界と、しょうもない罵詈雑言や好き嫌いで判断される理不尽さのシャワーに塗れ過ぎて、その感覚を乗り越えるための原動力やきっかけをいくつ取り込んでももう機能していない、ということに他ならない。いつから忘れてしまったのか、いつからできなくなったのか、それは明確にわかっているけど、そこまでの人生7割生きてきた信念や自分の役割や生き方を潰されるような社会に還元など1ミリもしたいと思わないし、そのような溜まり場である場所ばかりだと思い込みたくなくても、経験からそういうふうに思うように出来上がってしまった。その責任を、その原因たちが取ってくれるだろうか。否、やられた側は永遠に被害者でいなければならない。そんな世界はもう飽き飽きしている。

…厳しいことを言って必ず人が成長するわけではないことを、世の中のあらゆる経験をしてきた人でもわからないと思う。甘々でめっちゃくちゃ伸びる人も居れば、全く逆もいる。コンフォートゾーンから抜けないと成長しない人ばかりではなく、そこから革新を求めて自ら脱皮する人も社会もある。それを理解されないマイノリティがわであることは承知しているけれど、あまりにもその風が強過ぎて、この社会と世界は、少なくとも最近のコミュニティについては、どこにも所属する価値はないと思っている。こんなマインドだから周囲と折り合わないのではなく、これが事実あるということを甘えや無視で対応しようとする浅はかな考えこそが理不尽極まりない、と言いたいだけ。

歩みよれば否定され、否定される所以を考えるとヒエラルキーに当てはめられ、頑張ることを嫌であると言っていないのに全て理不尽に帰ってくるこの流れ、社会、世界が憎たらしい。

自責で自分に全て非があるように行動すればペルソナが乖離して精神的に崩壊しそうになる、しかし自我を全うし過ぎれば自分本来を見失いそうになる。これを回避性パーソナリティ障害というのであればそれまでだが、努力した先に理不尽しかない、そしてそれを我慢することが社会であるという構図とカラクリが全く理解できず、苦しんでいる。そして、そこに追い討ちをかけるように課題が、早いうちにどんどんとやってくるこの現状について、苦労人だね、で片付けられるその意味不明な楽観主義にまた、憤っている。

どうすれば良いのか、どうすればより自分が生きたいように生きられるのか。それ自身が何も無くなってしまった、空虚で、何に対しても意味を感じなくなってしまった。美味しいも、楽しいも、心地よいも、今は何に触れてもどのようにアプローチしても、その先が何も見えない。そんな今、ただ、毎日を過ごしている。

全てが嫌になって、全てに羨んで、全てが恨めしく、そして全てを破壊したい。

それを、プラスに自分の努力に、没頭できる自分自身に、できる環境にないことだけが本当に怨めしい。

子供のままでいることが、正しいと岡田斗司夫が言っていたけれど、それもできていない自分が腹立たしい。このやるせない思いと状況から、いつになったら脱せるのか。毎日、書き出して見ているけれど、まだまだこの迷路は続いていきそう。壁を蹴りながら、壊したいのに壊れない壁を、呪いながら、敬虔なかつての自分に邂逅できる場所はないか、音楽はないか、その瞬間はどうやったら訪れるのか、思い出して進んでいく。進んでいく体力も気力も、もうどこにもないけれど。

t tatsu

山梨在住。あっちいったりこっちいったり、浮き沈みの激しい人生。音楽、本、映画やことばを好みます。多趣味多忙が代名詞。 …「あたりまえ」のことは、そうでもない...

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