ソレじゃない「コト」と「バ」でつながること

住人

2024年12月1日から、一つのプロジェクトを始動しする。

【「今日も頑張ったね たこ焼き食べて帰ろう」プロジェクト】と銘打った本企画。
病院の小児科外来へ受診に来た子どもたちに、たこ焼きチケットを渡す、という内容だ。
本企画の源泉は、私の幼少期からの実体験もさることながら、「ああでもない」「こうでもない」と長い間、うんうん唸っていたものだ。
今回、懸念事項(ほとんどは私の内側の問題)がおおよそクリアになったので、実施に踏み切った。
今回は、その私の内側の懸念事項、もといモヤモヤをつらつらと書いてみた。

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「居場所」「つながり」ということばが出始め、各所にできはじめたぐらいから疑問に思っていたことがある。

行政がつくった「コミュニティセンター」、有志がつくり、運営している「みんなの居場所」。
補助金がおり、つくったはいいものの、行く人は限られる。
見えない雰囲気のドアは、新しい人を遠ざける。
居場所として作ったのに、つながれる場所としてつくったのに、みんなのためにつくったのに。
そこには運営者と利用者という、さながら障がい分野等での「支援者」と「当事者」の関係性にも似ているなと思った。

また、ボランティア関係のセミナーだっただろうか。
「人の巻き込み方」というフレーズをしばしば目にする。
「巻き込み力」と検索をかけると、ビジネス関連の記事が出てくる。
「巻き込まれる側のことも考えろよ」と言いたくなってしまう。

「居場所」「つながり」「生きづらさ」

これカテゴリーは、抽象度が高いこともあり、考え方や定義、解釈が運用する側によって微妙に異なる。

多くの場合、「居場所」には管理する人たちがいて、「つながり」をつくろう、つくってあげようという人たちがいて、「生きづらさ」を実感している人たちがいる。

「障がいの垣根を超える」「障がいは社会がつくっている」
そんなフレーズも出回る。

そんな一連の状況に、

ず~~~~~っと、もやもやしていた。

ひとつの概念に出会ったのはそんな時だった。
思想家・東浩紀氏が創業した株式会社ゲンロンの「ゲンロン友の会」会員に一時期なっていたことがあり、その時に小松理虔(こまつりけん)という人を知った。
小松氏は、障がいの分野で叫ばれている「当事者論」に一石を投じ、共に事をする「共事者」という概念をつくった。
小松氏は、共事の概念をこのように示している。

当事者ではない。当事者を直接的に支援しているわけでもない。研究者でもなければジャーナリストでもなく政治家でもない。プロフェッショナルでも専門知識を有しているわけでもない。けれど、当事者性はゼロではなく、社会の一員としてその物事を共にし、ゆるふわっと当事者を包み込んでいる。そんな人たち。あるいは、専門性も当事者性もないけれど、その課題と事を共にしてしまっている。そのようなゆるい関わり方。それが現段階でぼくがイメージしている「共事者/共事」だ。

https://webgenron.com/articles/gb041_01

何も目的はつながりでなくてもいいし、居場所でなくてもいい。
結果的につながれて、結果的に居場所になるような、そんな取り組みをしているところはいくつもある。

「物理的な居場所も必要だけど、そうじゃないところもあっていいよね」

様々な方からのことば、身体性を帯びた経験。
ひとつひとつの要素が、少しずつシナプスのように接続されていった。

当事者としての原体験を元にしたプロジェクトは、あまたある。
「同じ思いをさせたくない」というのも多く見かける。
「こんなのあったらよかったな」というのもある。

今回は「なんか、これよかったなぁ」である。

ここまでグダグダ書いておいて、結局それかよ、である。
そう。「それかよ」である。

言葉には、プルダウンがある。
ひとつのことばに対して、こういう意味で伝えている、こういう背景がある、こういうエピソードがあるなど。
言葉の重み、ということを考えた時、プルダウンが多くあるような気がする。
発した言葉や、行動をどれだけ語れるか。外向けに語れなくても、自分の中で自分にどれだけ語れるか。
今回の「外来の帰りにたこ焼き食べて帰ろうぜ!」という言葉のプルダウンには、たくさんの逡巡や、実体験、伝聞、記事、人のことば、想いが詰まっている。

ここまで来て、少しわかったことがある。

ここ何年か、自分は長い文章が書けなくなっていた。プルダウンが短くなっていた。
書けない時は本当に苦しい。
暗中模索とはいうものの、模索するものがない。ただ、そこに立っているだけだった。
何かが足りなかったのだろうか。書けたときの自分と、書けなくなった自分と、何が違ったのだろうか。
私が思うその答えは、自分と話す時間がなかったのだろうということだ。

そのことについては、またいずれ書ければいいなと思う。


sarami

生き意地の汚い人生を 送っています。

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