強烈熾烈解脱の字面が強い

住人

タイトルは全く関係ありません。

もう、7年とか前かもしれない。
当時私は、今よりもはるかに”何ものにもなれない自分”に焦っていた。
同時に、”すごい人”に強烈な憧れがあった。どんな人がすごい人なのかの言語化もできないままに。
持病による体の弱さはあったかもしれないが、それでも毎日仕事に通え、休日はどこかに遊びに行くぐらい、まぁ普通っぽい体力はあった。
でもフィジカルよりもどうしようもなく、メンタルもマインドも、幼く不安定だった。
何かにすがるように、各地域でNPO法人や有志がやっているイベントをSNSで見つけては、片っ端から参加をしていた。
そこで主催をしていたり、登壇している人たちは、とてもキラキラと輝いて見えた。
僕は、その人たちの様になりたかったのかもしれない。
ある時、当時県立大に在籍していた学生さんが登壇するイベントがあった。その時は特に何もなかったが、当時僕が出入りしていた居場所的なところにその人がいた。
学生とは思えないほどのバイタリティと自信には人を惹きつけるものがあり、無謀にも「何か一緒にできませんか?」と声をかけていた。
そしたら「私があなたと何かをするメリットを説明してくれませんか?」と返ってきた。
僕は黙ってしまった。
その言葉が出るということは、その人から見て僕は一緒に何かをしたい!と思われる人ではなかったということだ。当然と言えば当然のことだが、僕は深く落ち込んだ。そりゃそうだ、と勝手に納得してしまう自分にも落ち込んだ。
その人とはそれっきりだった。


…………あれから何年も過ぎた。
僕はまだ、すごい人、になれていないし、何者にもなれていない。
だけど、時々お声をかけていただき、活動が一緒にできる仲間に巡り合えた。
何が変わったのだろう。
多少できることは増えたのかもしれない。
ただ、すごい人ってどんな人、というのも少し輪郭が見えてきた感がある。
自分がやりたいこと、好きなことを見つけて、周りが「この人楽しそうだな」って思えるぐらい目キラッキラさせてる人のこと。
同時に、それでなんとかでもご飯を食べていかれてる人。

いつしか、”すごい人”になりたい”何者かになりたい”という欲求は薄れていた。
薄れてはいるけど、その願望がないわけではない。
大変なこともあるけど、平凡に楽しく生き続ける、ということになぜか自然と舵が向いた気がする。
低所得ではあるけど、正社員で毎日9:00-18:00で働いていた時より心も穏やかだ。
それでいて少しずつ刺激もある。
落ち着くところに落ち着いたのだろうか。
それもいい。

sarami

生き意地の汚い人生を 送っています。

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