余命宣告の煩わしさ。

住人

父がその生涯を終えようとしている。88歳、認知症、癌が肺と肝臓に転移。余命宣告を受けた。わたし、ひとりで、それを聞いた。父の世話をしてくれていた77歳の母も介護中に骨粗鬆症による骨折をして、入院生活を余儀なくされている。そもそもは実家で母が父の介護をしてくれていた。わたしはわたしでたまに帰ったり、毎日の電話連絡を欠かさず、ケアをしてきたつもりだった。しかし、母が緊急入院し、自宅で父の面倒をわたしが看たが、とてもじゃないが、ひとりでできることじゃない。母に背負わせてしまっていたと今さら後悔。父は20日間の入院(おそらく延長される)で母は1、2ヶ月の入院。ダブルパンチの緊急事態宣言@中川家。と同時に真逆の思いも発生。介護から解放される安堵感、特に機嫌を損ねてはいけないと思うがあまり父を恐怖に感じてしまっていた気持ちが消えた。時間的な自由も取り戻した。

ライブに行く予定だった。こんなことになって行くのは責任放棄、無関心、自分という人間の卑劣さを証明する行為。しかし、「気分転換に行って来なよ」と妻が言ってくれた。「そうか」と素直に受け入れられたのは、やはり本心は行きたかったのだろうね、わたし。

11月9日(日曜日)、LIVE HOUSE J(長野市)、イースタンユース(1988年結成の3人組パンクバンド)

イースタンユースをまともに観るのは11年振りだ。わたし自ら企画したイースタンユースと鬼才・向井秀徳氏率いるZAZEN BOYSのツーマンライブ以来のこと。厳密に言えばその後も何度か観ているが、用事で途中退場しなければならなかったり、惰性で観に行っていたり、積極的な理由ではなかった。しかし、今回は演奏に集中できた。爆音を浴びてきた。言葉に勇気をもらってきた。素晴らしかった。

イースタンユースとの出逢いは確か1997年の年末、渋谷のライブハウスで目撃したのがそれだ。ライブはすごかったはずとおぼろげながら覚えているが、何よりも強烈だったのは、レコード会社のプロモーターさんが終演後、大泣きしながら物販に立っていたことだった。感動のあまり公の面前で堪えきれずに涙する男の姿がそこにあって、わたしは少なからず心を揺さぶられた。気がついたらその後、都内でライブがあるとどんなに忙しくても、必ず足を運ぶほどのファンになっていた。それからずっと好きで、原点から17年後、長野市にイースタンユースを呼んでライブ出演してもらうという夢みたいなことが実現した。余談だが、ボイス・ギターを担当する吉野寿さんに憧れるがあまり、なかがわよしのという筆名をつけさせてもらった。うん、それほど愛していたんだな。それなのに、その後、11年もライブに行かなかったのは、夢が叶ってしまったから熱が冷めてしまったせい。好きが激しすぎて、その反動で嫌いにもなった。だから、ずっと聴かなかった(とは誇張しすぎかもしれないが)。今回の全国ツアーのアナウンスを知った時も行くことはないんだろうなと冷ややかだった。でも、妻が行くべきとうるさかったし、同じく嫌いになったZAZEN BOYSも一昨年の長野公演を観て復縁したこともあったので、同じ現象を期待したのも本音。

母は入院から1週間で痛みに耐えながらも歩行器の補助付きで数歩歩けるようになった。父は認知症が爆発してきたし、癌の具合も良くなく痛みを訴えるので、モルヒネを打ってそれを和らげている。だからもちろん、会いに行ってもまともな会話にならない。死が迫っている。母にはそのことをまだ言えない。退院まで父の命はあるのだろうか。うん、そこまでは急な話じゃない(と信じたい)。

イースタンユースの演奏にわたしは何度も涙した。両親の入院のこと、特に父が死ぬかもしれないという状況とイースタンユースの生命力ある合奏を現実と重ねて聴いた。生は死で、死は生だ。「朝は来る」、「大丈夫、大丈夫だぜ」、「いずれ暮らしの果てに散る」、「人間達、生きてる!生きてる!」と吉野さんは11年前と一切変わらない熱量で叫んでいた。序盤は涙を堪えていた。しかし終盤の『矯正視力〇・六』という曲で嗚咽。ベースラインがどこまでもやさしくて柔らかかった。それに反する土砂降りの雨のような轟音ギターが辛い感情を洗い流した。淡々とリズムを刻むドラムにもグッと来るものがあった。間奏のアンサンブルは美しく、バンドであることの意味を表していた。ベースの村岡女史のコーラスでついに涙腺崩壊したわけだが、何よりも透明でピュアだったんだよね。実は両親の病気と怪我を疎ましく思っている、汚れちまったわたしの心を許してくれたんだ。≪了≫

なかがわ よしの

生涯作家投身自殺希望。中の人はおじさん。早くおじいさんになりたい。

プロフィール

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