『涙を抱きしめて、』

住人


わたしは、私のために、言葉を綴る。

私とわたしは別物だ。厳密に言うと「私」は現実世界で肉体を持ち、活動を行なってる。いわゆる外側、器、脳のようなもの、そんなところだ。それに対して「わたし」はそんな私を構成する要素で、内側、魂、血液みたいなものだと思う。私の中にはたくさんのわたしがいる。

その中の一人、とあるわたしを紹介しよう。

名前はしえさん。(だれかに呼ばれる時、さかなクンさんみたいにしえさんさんになってしまう気がするけど気にしない)私のために生まれた新しいわたし。言葉を綴りたいと叫んで生まれたわたし。生まれたてなので右も左もわからない。他のわたしと比べるとなんとも心許ない。それでも『シャーロック・ホームズ』のワトソンのように、『千夜一夜物語』のシェヘラザードのように、語り部でありたいと思ってる。私のための語り部だ。

わたしは、私に何を綴ろう。目を閉じて考える。

そっと目を開けると、

ポロポロと涙を流しているわたしが目の前にいた。

わたしはそのわたしを〈涙さん〉と呼ぶことにした。どうして泣いているのか聞いてみると、涙さんは堰を切ったように話し始めた。

ーー悲しくて、辛くて、怖い。言い争う大人たちの声が。寂しくて毛布を抱えた夜が。教室の扉を開けられなかった朝が。親しい人が突然宇宙人に見えるようになったあの日が。非常階段から見えた青空が。世界が眩しすぎて感じた死への誘いが。全ての記憶に蓋をして、生を謳歌していたのに。それでも忘れたころに、優しく抱きしめるように希死念慮がやってきた。振り払うように、戦って、もがいて、苦しんで、それでも生きていこうと思った矢先に、あの人が永遠の眠りについてしまった。それらがたまらなく、怖くて、辛くて、悲しかった。ーー

そう言って涙さんは泣き疲れて眠った。

わたしは悟った。涙さんは、あの日泣けなかった私の蓄積だ。泣くことを、泣き叫ぶことを、我慢してしまった。そう選択し続けた私のために生まれ、涙さんは泣いていたのだ。心の中で、ひっそりと、私に気付かれないように。私のために。

でも、本当は気付いて欲しかった。気付いて欲しかったのだ。わたしがいる。いつも泣いてるわたしがいると。これ以上我慢しなくてもいい。泣きたい時は泣いてもいい。感情をむき出しにしてもいい。そう私に伝えたかった。だからわたしの前に現れたのだ。

わたしの集合体たる私が、涙さんの存在に気がついたところで、(もしかしたら既に気付いていたのかもしれない)涙さんの涙は止まらない。だって、涙さんはあの日、あの時、あの瞬間に泣けなかった私の蓄積だから。

それでも、これ以上涙さんの涙が増えないように。わたしから私へ、言葉を綴る。

「涙を抱きしめて、」

わたしはしえさん。

私のために言葉を綴るわたし。

しえさん

どこかの映画館にいるような、いないような人。被り物はもういらない。

プロフィール

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  1. ニルン

    しえさんの気づけば涙が出てきて、それは今までの蓄積という部分共感できました。
    私の場合、泣きそうなとき、ぐっとこらえてしまい、その感情が吐き出せず潰れてしまうことが良くありました。
    そして、いざ涙腺が決壊するとしばらくとまりません、
    涙を抱きしめてという言葉はしっくりきて、この言葉を知ったおかけで生きやすくなった気がします。
    ありがとうございました。

    • しえさんしえさん

      「涙を抱きしめて」には、涙を流す自分を受け入れて、共に歩もうという祈りを込めました。抱きしめることはある種受け入れることだと思うので。ニルンさんがこの言葉で少し生きやすくなったと感じたのなら、きっとその祈りが通じたのかもしれません。わたしは私のためにこれを書きましたが、それが誰かの生きやすさをすこしお手伝いできたと思うととても嬉しいです。素敵なコメントをありがとうございました。