幸せと幸せ

住人

幸せを感じる瞬間はどんな時ですか。もしこの文章を読んでくれる人がいたら、ちょっとだけ考えてみてください。

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約1年ぶりの実家で、ふかふかな大きいソファに寝転んだ。ここは家の中で2番目に落ち着く場所だ。

頭の先には、もう動かないマッサージ機があって、おばあちゃんが昼寝している。片手にはテレビのリモコン、我が家のチャンネル主導権はおばあちゃん。ソファの前の畳には、おじいちゃんが横になって大きないびきをかいている。相変わらず気持ち良さそうだ。

2人につられて私もウトウト。居心地が良すぎて必ず眠くなってしまう。懐かしくて、愛おしいこの感じ。

私が手を挙げて大きく伸びをするとおばあちゃんが私の手を掴んだ。なんだ、起きてたんだ。

「どうしたの。」って言ったら、「なんでもない、はっはっは」って大声で笑う。つられて私も笑っちゃう。

はあー、幸せだなあ。なんて思いながらまた眠りにつく。

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本当は、そんな風に思いたくない。「幸せ」なんて言葉、この世になければいいのにって思ってた。だって自分が幸せを感じる瞬間って、必ず幸せ“じゃない”ことと比べてるって気づいたから。

さっきも、私の頭の片隅には、一人暮らしの孤独な光景があった。寂しい気持ちを思い出して、おばあちゃんおじいちゃんと過ごせるその時間を私は「幸せ」と呼んでいた。

私の幸せは、大袈裟に言えば「不幸せ」なことがあってこそ成り立つらしい。大袈裟すぎるかな、でもわかりやすくするためにここではそう呼びます。一つ一つの瞬間を、ただ単に幸せだって思えればいい話だけど、私はどうやらめんどくさい思考回路を持っているようで。その幸せと不幸せの関係に気づいてしまったからには、それが頭から離れない。考えすぎだって言われたらそれまでなんだけど。

私の幸せがあるのは不幸せが存在するからで、つまりはじめに言った、幸せが無ければいいって思うのは、この世に不幸せが無かったら幸せも存在しえないのに、ということだ。わかりづらいですよね。うん、私も頭の中がごちゃごちゃだ。

そんなことを考えていた時、2018年幸福度ランキングとやらが国連から発表された。私はベトナムに滞在していたことがあるので、日本とベトナムを見てみる。日本は54位でベトナムは95位だった。

おかしい。確実にベトナムの方が幸福度は高いはずなのに。なんて9ヶ月しか住んでないのにベトナムのこと分かったつもりになっている私は考える。そのランキングは、「所得」「健康と寿命」「社会支援」「自由」「信頼」「寛容さ」などの要素を基準に定められていた。(参照元:国連「世界幸福度報告書」https://s3.amazonaws.com/happiness-report/2018/WHR_web.pdf)

お金があれば幸せなの?日本人、ベトナム人とは言えど一人として同じ人はいないのに一括りにしていいの?そもそも幸せに順位なんてつけられるのか?幸福度って?幸せって?

その人が幸せかどうかなんて、他人に決められること?ランキングの結果に勝手に怒っていた私はベトナム人の友達に聞いてみた。「ランキング、どう思う?」って。

「日本はベトナムより豊かだからね、そりゃ日本の方が順位は高いよ。」って答える。

「じゃあ、あなたが幸せに感じる瞬間はどんな時?」

「周りの人が幸せな時」

……………

驚いた、彼が一言目に迷いもなくそう答えたことに。その瞬間、私の中にある幸せと不幸せの関係が一気に崩れた。私の考えでは、不幸せがなければ成り立たなかったのに、彼の中には幸せありきの幸せが存在した。

文章で書くとうまく伝えられないけど、彼はランキングとか順位が低いこととか、それを受け止めていながらも全く気にしている様子はない。そして心の底から、自分が幸せだと思っている。ランキングの結果に勝手にムキになっている自分が少し恥ずかしくなった。

幸せありきの幸せかあ。周りの人が幸せな時、私も幸せ、だなんて考えられるのだろうか。きっと意識しようとも、気づいたら今まで通りなにかと比べて、自分の幸せの価値を高めようとしてしまう気がする。人によって幸せの基準なんて異なるのに。

ただ、私が考えていた幸せと不幸せの関係が決して悪いわけではなく、そういう考え方もいいのかな、とも思う。その関係性に気付く前は、いつも幸せだけを感じて、不幸せの存在に気づかなかった。いや、もしかしたら本当は知っていたくせに、見て見ぬ振りをしていたのかもしれない。それだったら、幸せを感じるとともに不幸せに気づいて、不幸せさん、ありがとうって。いやそれはおかしいか。ありがとうはおかしいな。なんだろう、リスペクトしたい。うーん、これもなんだかなあ。当てはまる言葉が見つからない。不幸せの存在を認めるってこと、かな。

反対に、自分が幸せを感じる瞬間のように、周りの人が幸せを感じる瞬間にとって、自分が持っている不幸せが存在するから成り立っているのかもって思ったら、少しは”不幸せ=悪”っていう印象が少なくなるというか。そしてそこにベトナム人の彼が持つような、幸せありきの幸せがさらに当てはまったら、どんどん広がっていくんじゃないかなあって。うん、また頭の中がごちゃごちゃだ。

まあそんな簡単じゃないことくらいわかっているし、単なる理想かもしれない。幸福度ランキングだって、調査は正確で何かを分析する際にきっとすごく役立つものだろうし、ランキング付けが良い社会を作るキッカケになるのかもしれない。(でもやっぱり「幸福度」の他に良い言葉なかったのかなあってここだけは譲れない。)

ベトナム人の彼のように、幸せありきの幸せ、私も感じられるかな。そういえば親友の結婚式で感じたあの気持ちは紛れもなく、その幸せだった。よく考えたら意外といろんなところで感じられるみたいだ。これからもそんな風に感じていけたらいいな。比べてばっかりで生きてきた自分にできるかな。気づいたらまた比べてしまうだけになりそうだけど、それはそれでいいか、その時はまた考えよう。

hoatam

童顔とO脚に悩む21才。じゃがりこを与えられると喜びます。

プロフィール

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  1. しえさんしえさん

    hoatamさんの幸せ観、すごくよくわかる…と思いました。わたしも、幸せって不幸せな瞬間があるから存在する。そうやってプラスとマイナスのバランスを取ってると思ってました。や、今も思ってるんですけど、、、。でも、幸せありきの幸せ、そういうのもあるのも確かに事実だと気付かされました。
    頭がごちゃごちゃになりながらも素敵な言葉を紡いでくれてありがとう。