人の価値

住人

 

 

「どんな人間にも価値はあるよ」
というような言葉を聞いたことがある。
「人の命に重い軽いはない」
「生きているだけで価値がある」
きれいな言葉たちである。
では、
その「価値」というものは具体的になんなのか。
どんな人間にもある、その「命の価値」ってのはいったいどんなものなのか。
説明できる人はいるでしょうか。

 

大学を卒業後に入った市役所で、たまたま障害者と関わる部署に配属された。
そこで仕事をした三年半、僕はいろんな人たちに出会った。
重度の心身障害者もいた。
寝たきりで、こちらが話している言葉も理解しているのか分からないような人だ。
彼にも、「どんな人間にも価値がある」という言葉を投げ掛けるとしたら、彼にはどんな価値があるのか、納得できるような答えを言える人はいるのだろうか。

仕事をするなかで、綺麗事ではない、「誰にでもある人間の価値」について、本気で考えなければならなかった。

 

ずっと考え続けている。
今もなお障害を持つ人たちに関わる仕事をしている。しかも、「就労支援」という、生産性や市場価値のようなものが人間の価値であると錯覚してしまう可能性のあるような環境のなかである。

 

一応今のところ、僕は自分のなかで二つの「人間の価値」の答えを持っている。
備忘録として、書いておきたいなと思う。

ひとつめの人の価値は、「誰かの感情を引き出す」という価値。
ふたつめは、「人と人を繋ぐ」という価値である。

ひとつめの「誰かの感情を引き出す」価値。
これは、その人の発する言葉、その人の声、その人の行動、その人の姿、その人の芸術、その人のあらゆる表現により、ほかの誰かが何かしらの感情を持つことができる、という価値である。
僕は、喜びや嬉しさのようなプラスの感情はもちろん、悲しみや苦しみ、気持ち悪さや、つらさなどのマイナスの感情にも、意味があると思っている。マイナスな感情があるから、人は幸せを感じることができると思っている。すべての感情があるから、人間は、人間でいられるのではないかと思っている。
だから、もしも、その人の言葉を聞いた誰かが「ムカつく」と感じたとしても、その人には「ムカつくという感情を他人に発生させた」価値がある、と考える。
ムカつく感情もその人の人間らしさを作っている。その人の幸せをどこかで形づくっている、そんな気がする。
重度の障害者の生きている様子を見て、愛の感情を持つ家族がいる。嬉しいと思う支援者がいる。一方で、何か不快感を持つ人もいるだろう。哀れみや悲しみを持つ人もいるかもしれない。僕は、そのすべての感情に意味があり、どの感情を他人に与えたとしても、その人には誰かの感情を動かしたという、人間としての価値があるのだと思っている。

ふたつめの「人と人を繋ぐ」価値。
これは、僕が市役所の障害福祉の部署での仕事を終えて、少し経ってから気づいた価値だ。
僕は、障害者の支援に携わることによって、様々な人と出会い、繋がりを持つことができた。
同じ職場の素晴らしい同僚たち。社会人になって初めての職場だったが、すべての仲間の尊敬する点を挙げることができるほど、みんな素敵な人たちであった。
部署を異動で去るときも、職場のみんな一人一人に大切な言葉をもらった。異動したあとも、気にかけて連絡をくれたり、ドライブに誘ってくれたり、話を聞いてくれたりする。大切な繋がりができた。
そして、一緒に支援をおこなった外部の関係機関の仲間たち。一緒に悩みながら考えながら、お互いの立場を尊重しつつ仕事をした。専門性を持っていて、学ばせてもらいっぱなしだった。僕の異動が決まり、お世話になったと伝えに行くと、泣いてくれる人もいた。
そのひとりの市民の支援に携わったから、出会えた人たちがいた。
この障害者がいなかったら出会わなかった人がいた。
当たり前だけれど、奇跡的なことである。
その人たちとの繋がりが、いまの僕を支え、成り立たせている。

 

 

そして今、これを書いている途中で3つ目の価値が頭に浮かんできた。
3つ目の価値は、「できない、知らない」という価値だ。
人は、できないことがあるからこそ、できる人に価値が生まれる。
知らないことがあるからこそ、知っている人に価値が生まれる。
僕は野菜を作る方法を知らないから、野菜を作れる人には価値があり、僕はその人から野菜を買う。僕は視力が悪いから、眼鏡を作ってる人にほんと助かってる。
その人のできない、知らないは、この世の中に価値を生み出しているのだ。
ひねくれた言い方になってしまうが、つまりは、
価値を生み出している人間は、価値があるのだ。
ということである。
考えようによっては、「できない、知らない」があればあるほど、その人に価値があるんじゃないかと思えてくる。赤ちゃんなんて、できることがほぼ無いけど、なんか、この世で一番価値がある存在に見えるではないか。
そう考えると、人の「できない、知らない」に感謝しなければいけない、そんな気がしてくる。

 

  

僕はこれからも、誰にでもある「人の価値」とは何なのか、考え続けていきたい。
また、もしよかったら時間のある時にでも、あなたの思う「人の価値」を教えてください。

 

soshi

1991年生まれ。長野市出身。 大学の専攻はジャーナリズム。休学し9カ国放浪後、地元市役所に入る。福祉部門に配属となり、障害者のソーシャルワークなどを行なう...

プロフィール

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  1. ワタナベ

    「生きているだけで価値がある」という言葉を良く聞きます。その先の「価値」ってなんだろう?という事を考えている人に、僕はこの文章を読んで、初めて出会うことができました。挙げてもらった3つのことが価値だと考えると、「価値のない人はいない」ということになると、存在の肯定であり、多様性や個を認めることにも繋がる。素敵な考えに出会えて良かったよ。ありがとう。

    • soshisoshi

      ワタナベさん
      感想いただき、ありがとうございます。
      ワタナベさんが前に記事で書いていた、何者でもないということ。何者であることを求めてしまうのって、何者かにならないと価値があると思えない人が多いからだと思うんです。
      だから、ワタナベさんのように、何者でもない自分でいたいと思えることって、何者でなくても自分に価値を感じられることなんじゃないか、この人すごいんじゃないか、悟っているんじゃないかと僕は思いました。
      まずは、自分が何者じゃなくても自分を認めることができること。それができてはじめて、周囲の人に対しても何者でもないその人を認めて接することができると思っています。
      僕がぐるぐる考えたことを、ワタナベさんはすでに体現しているなあと、僕勝手に感じているんです。なんか勝手なこと言ってすいません。違かったらすいません。
      でも、ワタナベさんは人を、人の価値を、曇りなきまなこ(いきなりジブリ)で見ていると思います。そんなこともちょっと思いながら記事を書きました。ありがとう。

  2. しえさんしえさん

    soshiさんの言葉は、いつもわたしの胸にすとんと落ちていきます。
    今回の記事も、特に3つ目の価値についての記述は、
    戸棚から大福が出てきたような驚きとそして嬉しさがありました。
    っていう表現が適切かはわかりませんが、
    わたしにはなかった視点を得たという点ではあながち間違ってないかもとも!