アーガスフィルチ
映画をつくりたい
やりたいことを聞かれるときに、よぎるのがこれだ。
僕は映画をつくりたい。
いろんな映画をつくりたいと思ったことがあるが、いまは長野を舞台にした、ヒューマンドラマ系がいいなあと思っている。
映画は、そこに出てくる一人一人が全員いないと成り立たない。台詞がない役者だって、いなければ映画は完成しない。
そんなところが映画のいいところだと思う。
本当は、この世の中だって、一人一人がいないとまるっきり違う話になってしまう。
いま生きている人が生きているからいまの僕やあなたがいる。
映画は、それを教えてくれる。
僕は映画をつくりたいけど、特にそれに向けてなにか活動してるわけでもない。
映画の作り方を勉強したり、仲間集めをしているわけでもない。
ただ毎日鼻くそをほじりながら過ごしている。
そう考えると、実はそんなにやる気がないのかもしれない。
むかし、映画監督の紀里谷和明さんが長野のホテル信濃路に講演に来たので聞きに行ったことがある。
そのときのある話が印象に残っている。
紀里谷監督が若い頃、当時のボスから写真の仕事を頼まれた。
紀里谷監督はボスに「どんな写真を撮ればいいですか?」と聞いた。
するとボスは「おまえの好きな写真を撮りなさい」。
「好きなものだけ撮っていたら飯を食っていかれないんじゃないですか」と返すと、
「だったら飢え死すればいい」と言われたらしい。
やりたいと思うことをやって、食えなくなったなら、死ねばいい。
そのときが死に時だ。
当時の僕の死の捉え方がぐわんと動いた瞬間だった。
そう考えると、僕は映画をつくりたいとか言ってるけど、映画を撮るために時間もお金も全部使って死んでもいいと思えるわけではない。
やりたいことじゃなくて、「まあ、余裕があったら、やれたらいいなあ」的なものなのかもしれない。くそ甘い。
ただなんとなく、ほわーんと頭の隅っこにある。
こんな感じだから、たぶんいつまでたっても映画はつくれない。
僕は映画もつくりたいけど、生きたいのだ。
生きてなにかをしたいのだ。
そのなにかとはなにか。
分からない。
普通に結婚して子供がほしいのか。
安定して比較的好きなものを食べられる暮らしがしたいのか。
すごいことをやらかしてメディアに注目されたいのか。
身の回りの小さな幸せを感じつつ、のほほんと暮らしたいのか。
Google trendでいろんな検索ワードを調べるのにはまっている。
自分の「やりたいこと」を検索エンジンに投げ掛けるやつらがぐんぐん増えている。
あなたの中にしかない、あなたにしか分からない自分のやりたいことを、世に問いかけている。
ついでに、「死にたい」「苦しい」もどんどん増えている。
さっきの話だと、やりたいことをやって食えなくなったら死ねばいいのだが、そもそもやりたいことが分からないから、死にたくなる。
ちなみに全く関係ないけど、「まちづくり」の検索ワードは減っている。
まちづくり。最近、もはやそんなことやる必要ないんじゃないのかと思ってしまう。だから、この結果はヒョーんといった感じである。
まちづくろうがつくらなかろうが、僕は長野が好きだ。僕が友達をすごかろうがすごくなかろうが好きなように、今のままでも変わろうとも長野は好きだ。まちの魅力は、そこに住む人ひとりひとりが自分の人生を生きることで生まれる。
ああ、だから映画をつくりたいんだなあと思う。
そこに住む一人一人が確かに生きている。
そんなことが感じられるような映画がつくれたらいいなあ。
映画、作りましょう!
soshiさんが撮る映画、観てみたいです。
しえさん、こう見えて(見えてないですけど!)
大学では映画の勉強してたんですよ〜◎
きっとなにかのお力になれるはず!なんてちょっと前のめりすぎますね。
でも、いつも心に刺さる言葉を紡がれるsoshiさんの撮る映画が観たい気持ちはもりもりです!
ぜひ、映画を作って欲しいと思います。私も映画を作りたい。演者でもいい。まったく無知識で浅はかなのだけれど……!
それでもここ長野が舞台の人の生き方や自然の在り方が混沌としていて美しい様を形に残しておきたいなあと思います。