ぼくにとっての教師という仕事
*私個人のことで、「教育」という超限定的なテーマでの話ですが、もしよろしければお付き合いください。
8月。
学校は夏休み真っ最中。そしてぼく自身も勤務はあるけど時間的な余裕があって、最近、大学や大学院の時の友達や教授、先生と話す機会が結構ある。
そんな中で気づいたことがある。それは「自分はなんで教師をやってるのか」という問いへの答え。
もともとなんでぼくが教師になろうと思ったのか、なんで大学院に進学しようと思ったのか、そこらへんを書き始めたら長くなっちゃうのでまたにするとして、とにかく紆余曲折を経ながらなった教師。
そんな仕事を始めて約4か月経った最近、先のようにいろんな人に会う中で「最近どう?」「教師大変でしょ」と言われる。そのたびに、深く考えるでもなくぱっと「思ってた以上に楽しくやれてます!」とはっきりと言っている自分がいる。
なんでだろう?
そう考えたときに、 ”今の自分の生活に満足しているから” という理由が一番なんだと思った。
なんならこの文章を書くくらいには時間的余裕もあるし、学生の時までとはいかないまでも、旅行に行ったり友達に会ったりと自分のやりたいことをやれているし。
でも、それだけじゃないことに気づいた。
それは
今の「学校」というコミュニティーが好きだ、ということ。
学生時代、周りの実習生が「なんで教師になるの?」と問われて、「こどもがかわいいから」と答えるのをよく見た。実際、「あ、この人は本当にこどもをかわいいって思ってるだな」と思う人にもたくさん出会った。でも、ぼくはどうしてもそうはなれなかった。それゆえ、自分は教師に向いてない、と思った時もあった。けど、今思うに、ぼくにとってこどもは「かわいい」存在なんじゃなくて、「友達」のような存在、なんだと思う。
友達が自分のために何かしてくれたら嬉しいし、友達のために何か自分にできることがあればしてあげたい。
自分ができないことをしていたら「すごい」と思うし、教えてほしい。
「こんなこと言ったら嫌われるじゃないか」とお互いの腹を探りあって会話をするんじゃなくて、相手のことは考えつつも本音で話せる
そんな「友達」
ぼくは正直人付き合いが苦手で、人とかかわるときにどうしても気を遣って、表面的にかかわってしまうところがある。
だから、初対面の人とは、ある程度仲良く話せるけどそれ以上の関係になることが少ないと感じる。
でも、だからこそ心のどっかで、本音でなんにも気を遣わずに話せる、そんな友達がいるコミュニティーに憧れがあったのだと思う。そして、ぼくにとっては今の「学校」という環境がそれなんだと気づいた。
ぼく自身、はっきり言って精神年齢が低いと思う。だから、こどもたちとかかわるときも「先生」としてではなく「友達」としてかかわっている感覚が強いし、今の自分にとってそれが素の自分であって、自分がありたい自分に近い気がする。 (今になって思えばぼくが自分のことを「先生は~」と言いたくないのもそこなんだと思う)
よく
「教師はこどもの友達ではない」
実際周りの先生からも言われるし、ぼく自身も「そうだな」と思うところはすごくある。
「教師はこどもの将来のために、何かしらをするためにある」
それもある。
でも、ぼくは今こどもたちとそんなかかわりができていることを「幸せ」に思っている自分がいること、そんなかかわりがしたくて”教師”という仕事をしている、という側面が少なくともあるということ、に気づいた。
思うに、それってどの職業も同じじゃないのかな、って思う。
例えば、ぼくの姉は美容師をしているが、見ている限り人の髪を切りたいから美容師をしている、とは思えない。むしろ、「髪を切る」というのは、たまたまそれが「できる」だけであって、もっと本質的には髪を切りながら人と話すことを楽しんでいたり、「ありがとう」「また来るね」と言われることに喜びを感じているからなように思う。
もちろん、すべての美容師がそう、とは言わない。カリスマ美容師、と呼ばれる人は髪を切ることそのものに楽しみを見いだしているのかもしれない。でも、そうでない美容師がいることも事実なのではないかと。
教師も同じ。「教える」というのはただの手段で、それを通してこどもたちとかかわりたい、という側面があってもいいんじゃないかと思う。教師、という職業を他の職業と同じように考えることに批判はあるかもしれないが、ぼくは今そう思って教師という仕事をしている、という側面があることに気づいた。
我ながらなんて自分勝手なものかと思う。ほかの先生方からしたら「教師はそんな甘いものじゃない」と言われそう。でも、しょうがない、今そう思ってしまったのだから。
でも、たぶんこれからも「なんで自分は教師をしているのか」という問いはずっと考えていくことだと思うし、考えは変わっていくと思う。もしかしたらその問いを考えた結果、別のことをしようと思うのかもしれない。
ひとまず、今の自分の考えを書き記しておく。
あかっぱさんこんばんは!9日の記事にコメントありがとうございました。あかっぱさん、先生なんですね!
わたしは幼稚園も保育園も小学校も中学校も高校も嫌いでした。でも、わたしは保育士をしてる。自分でも不思議です。
子どもと「友だち」感覚でいてくれる先生、貴重です。
保育士も教師も先生先生してる人が多くて、すごく上からで、怖かった。
わたしも、あかっぱさんみたいな先生に、小学生の時に出会いたかった。めっちゃ慕ってたと思います。あかっぱさんの生徒さんが羨ましいです。
わたしは赤ちゃんに対しても人見知りしてしまって(保育士のくせに、です)、でもそれは裏を返せば「赤ちゃんとしてではなく一人の人として接してるからじゃない?」と言ってくれた人がいて救われました。
わたしも、保育士として子どもの成長を助けることは意識しつつ、先生先生ならないようにしています。(子どもの前で一人称を「先生は」って言うのを避けて「私は」って言っていたら、主任に注意されましたがわたしは「私は」って言っています(笑))
あかっぱさんも、自分のスタイルを貫きながら、お仕事頑張ってください。
「教える」ではなく、「伝える、繋がる」、ステキです。
纏まりのないコメントで申し訳ありません。
そうだったんですね
実はぼくも小学校の時の先生がどうしても合わなくて、今でも苦い思い出として残ってます。
そして、たぶんそれがあってぼくのなかでは、ゆうりさんの言葉を借りれば「先生先生」した先生、もっといえば人になりなくない、って思いで今まで過ごしてきたんだと思います。
それが結果的に今のぼくの「生きやすい」生き方のあり方のもとになっているなと思います。それぞれの人のスタイルがあってもいい!という自分と、「でも、こうあるべき」という思いとの葛藤はどうしてもありますが汗
お互いに無理しすぎずにやってきたいですね!
「「教える」というのはただの手段で、
それを通してこどもたちとかかわりたい、
という側面があってもいいんじゃないかと思う。」
この一文、とても目から鱗が落ちました。
今、お仕事を探しているのですが、
「教える」「髪を切る」それを目的にするのではなく手段と捉える考え方がある、
そう思った時、その仕事を通して何をしたいか、
そこから考えて仕事探しをしてもいいのかなと思いました。