”居場所”の先は

住人

「学校へ行かなくても良い」というのは、実はそう簡単に子どもたちに言うものではないのかもしれない、と思い始めたのは実は結構前だった。
正確には、同じ場所・場面で言い続けるものではないということだけど。
多様な生き方はそりゃ確かにあるけど、それは”人それぞれが前提”なのだから、この人のとおりにやればうまくいく(経済的自立など)というわけではない。
「学校へ行かなくても良い」が当然のように蔓延してしまうことのデメリットは、居場所と呼ばれるところではどこまで考えられているのだろうかと、ふと疑問に思う。
”居場所”の先をどこまで考えているのか。
児童養護施設の年齢で区切ることの批判はあるけれど、どこまで守られないといけないのか。彼ら彼女らはそんなに弱いのか。

どうあっても現段階で、学校へ行かない選択肢はマイノリティだ。
「そういう生き方も今の時代はあり」という風潮が昔より緩んできているからこそ、不登校という現状が終わった後(学校から年齢的に卒業した後)どうやって生活をしていくかがよりリアルに生々しくなっていく。
そう考えると居場所はまだ、学校の代わりにはなりえていないのだろうと思う。
学校へ戻れた、が保護者や子どもたちの感情的な安心なのであれば、居場所はあくまで一時的な保護の役割を果たすに過ぎないのかもしれない。
それを一番感じているのは、居場所を運営している人たち自身だろうし、逆にそれを感じずに居場所の運営をしてほしくないと個人的には思う…。
これは実際に運営をしてみて、「学校の代わりとしての居場所は無理だ」という実感から得られるものなのかもしれない。
不登校からひきこもりへシフトしたら、いよいよ選択肢が狭まる。
子どもたちから、体は大人メンタルはこども、ができあがってしまう。
体は大人メンタルはこども、はプライドが高く自信がない当人が一番認めたくない部分でもある。それが現実であるからだ。

そういうひとにはどうしたらいいのか。
福祉ではない、教育でもない。
”師匠”と呼ばれるものの存在だろうと思う。
導くでも、甘やかすでもなく。
一緒に何かに取り組み、手伝い手伝われ、進んでいく。
何かに困ったり、壁にぶつかったら何時間でも話を聞いてくれる。
一緒に飯を食べたり、楽しんだり、世の中の道徳を教えてくれる。
そこには、いわゆる忌避されやすい「支援臭」はしない。
そういう人に出会えるか出会えないかは、間違いなく運だと言える。再現性はない。あるわけがない。

しかも、今まで目を背けていたことに、現実に、真っ向から向き合わされる。

何もできない君は、これからどうしていくんだ?と。

傷つく。しっかりと。ちゃんと。傷つく。

社会は傷つくものだ。

だから、ちゃんと傷ついておけ、と。

真正面から。ぶつかってくる。何度も何度も。

安全安心の用意された人生なんて、凡人にはあるわけがないのだ。

sarami

生き意地の汚い人生を 送っています。

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