チイキノタメニ
カチカチッ
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「地域の皆さんのためにゴミ拾いをしました!」
「地域の皆さんのため、学生がアイディアを出し合いました」
「自分たちが暮らす地域を大切にすることを目的に…」
ズラ―――っと並ぶ「地域」という単語。
気が付くと僕は「あなたのためになりますよ」と玄関先で商品の宣伝をする営業マンを見る目で、画面を見ていた。
「地域活性化」「地域医療」「地域福祉」「地域支援」「地域づくり」「地域(地方)再生」「地域経済」「地域とともに」…
そんな言葉を目にするようになったのはここ10年ぐらいだろうか。
自分が出た福祉の大学でも「地域福祉の理論と実践」という授業があり、国家資格の科目にもなっていた。
僕が住んでいる地域はそれなりに伝統もあって、人もいる。
昔の人たちに家の場所を言えば「ああ、○○さんのお孫さん」って祖父や祖母の名前を出されてすぐに判別される。
お祭りで迷子になっても家の場所と名前を言えば、たいてい帰ってこれた。
「○○さんのお孫さんは皆優秀ね」
小さいころから近所の人たちにそう言われて育ってきた。
その時は笑顔で「そんなことないですよ」と子どもながらに謙遜をしていた。
祖父母は近所付き合いが非常にうまかったのだ。
「おじいさまやおばあさまには、昔からお世話になって」
僕が生まれる前のことを懐かしそうに話すご婦人に、「そうなんですね。これからもよろしくお願いします」と返した。
祖父母がなくなり10年近くが経った。
今、訪ねてくる人はほとんどいない。
お亡くなりになった人たちもいるだろう。
寝たきりになった人たちもいるだろう。
それでもお歳暮やお中元は割と届く。
「これも昔おじいちゃんとおばあちゃんが周りの人のことをよく見てくれたからよ」
母はそう言いながら丁寧に包装紙を解いていく。
この時期は我が家も出費が激しい。
こちらからお歳暮やお中元を贈ったり、お返しをしたりするからだ。
母はいつも頭を悩ませていた。
母は、祖父母を見て育ったからか、住民への気遣いをよくする。
おそらくいずれ「お世話になった人」が「おじいちゃんとおばあちゃん」から「お母さん」になるだろう。
それを考えただけで、胃から何かがこみあげてきそうだ。
僕は「地域」が好きではない。
全国各地で、少子高齢化を理由とし、「地域」が次々と消えているというニュースを見るたびに、心の中でガッツポーズをしている。
すると「なんてやつだ。お前も地域に住んでいるんじゃないのか」
「故郷がなくなって喜ぶなんてありえない」
「小さいころ近くのおばさんによくしてもらったじゃないか。その人が住んでいる地域がなくなって喜ぶとは…」
脳内の「一般的な市民」がブーイングを垂れる。
そのたびに僕は「守るだけの価値が地域にあるのか。そもそも守られなければならない地域に存在意義はあるのか」と問い返している。
「地域」の裏にあるのは、そこに住んでいる「人」だったり、文化だったり、伝統だったり。
だけど、嫌いだけど、自分の生まれ育った地域に愛着がないわけではない。
むかつくような因習や、嫌味を言う地域の人たちは少なくとも僕は見たこともない。(気づいていないだけかもしれないが)
近所ともめることもあまりない。(おそらく両親が裏でうまい感じに動いているのだろう)
ただ、そこには「人の目」がある。
例えば僕が 地域を良くしようとなんらかのアクションを起こしたとすると、必ず「あの家の子が」と風にのったヒソヒソ声が聞こえてくる。
それを聞いた両親は「わけわかんないこと、ご近所様に迷惑だからすぐにやめろ。やるならほかでやれ」というのは目に見えている。
今、僕は自分の地域では一切活動をしていない。
哲学カフェも、不登校の支援も、病弱者の支援もこども食堂の手伝いも、ライターも。僕は一切アクションを起こしていない。
今の僕にとって、自分が住む「地域」とは、 近所の人に迷惑をかけず 波風立てず穏やかに暮らす場所。
目立ってはいけない。
今日も笑顔の仮面を張り付けて商店街を歩く。
絶対に平日ではだめだ。向こうは僕の職業も職場も知っている。土日祝日の昼間。
「こんにちは!」
元気よく奥様方に挨拶をする。
「アソコノオウチノコハ ミナサンユウシュウダカラ」
今日も道端で奥様達が我が家の過去の栄光をたたえる。
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