いつか死ぬから死なないで
記憶は定かでない。わたしは1975年12月に、石川県粟津温泉にて生まれたらしい。当然のことながら、産み落ちた瞬間のことを覚えていないし、羊水まみれの胎内で過ごした季節は片隅にもない。
どうして生まれたんだろう?!
だなんていうかよ、バカヤロウ。人生に喧嘩を吹っ掛けるようになったのは、いつからか知らねえが、少年時代は純朴に。生まれてからほどなくして、石川県粟津温泉から長野県白馬村へ移住。この時のこともまったく記憶にございません。一番古い記憶は何か、深く潜れ。たしか、父の運転するバンの助手席に(多分)母と座って、後部座席の兄か姉の顔がフロントミラーに映っているのが見えて、なぜか怖かった。あるいは仏壇が戦慄するほど恐怖で、毎晩その部屋に行くのが嫌で仕方がなかった。これらはいずれも粟津温泉にいた頃の、思い出には間違いない。だって兄も姉もいたんだから。
兄と姉は我々と一緒に長野県までついて来なかった。彼/彼女らはHA・RA・CHI・GA・Iの兄姉。おそらく、父は前妻の女性と別れて、母を選んだんだと思う。浮気だったのか、純粋な愛だったのかは知らない。母からは「前の奥さんは亡くなったの」と聞いているが、本当のことを知りたくはない。戸籍を見れば、明快に判明することではあるけれど、わざわざ確かめるのは面倒だし。というか、怖い。≪不倫の子ども≫だったら……。父は長男だったし、そんな彼が、生まれ故郷を自ら離れて、見知らぬ土地の長野県に移住したのは何か理由がないわけがない。わたしに決定的な説明が必要だ。でも、父も母もそれをわたしに話したことはないし、わたしもわたしで何か察して訊かない。経緯や理由はどうであれ、
あなたたちの子どもで良かった。
そういえば幼少の頃のわたしの写真はほぼない。幼かった頃、写真を見せてと母にねだっても、毎回、わたしではない女の子が、補助歩行器を使って歩いている写真を見せられるくらいだった。バカだったわたしはなぜそれが自分ではないのかわからなかったし、今となれば、母がわたしを子ども騙しした気持ちは痛いほどわかる。写真のあの女の子は多分、姉。唯一、姉がわたしを抱っこしてほほ笑んでいる写真があったのを覚えている。兄との写真は一枚もない。姉との記憶はないくらいだから、兄とのそれもあるわけは。
中学生になってから、兄と姉がいることを母から告げられた。姉が結婚か離婚するか何かの重要な相談を持って父に会いに来るからだった。少なからず、わたしは動揺した。でもアホだから、なぜそれまで兄や姉の存在を隠しているのか、当時は理解できなかった。姉はぎこちなくわたしに接した。彼女の複雑な心境を今でも理解することは不可能。半分、血が繋がっているけど、永遠にわかりあえない。わたしとスムーズに会話できるはずがない。どこか寂しい目をしていたのは、はっきり覚えている。兄とも会うことは少なかった。メディア関係の仕事をしていた兄は、当時、高校球児だったわたしに「甲子園行けたら、清原(和博)に会わせてやる」とうそぶいた。
自然と兄や姉とは疎遠に。20年前にわたしの結婚のタイミングでご祝儀をいただいて以来、関係がない。兄も姉も今、何をしているのかも、どこに住んでいるのかも知らない。父が一昨年と去年に癌摘出の手術をしたのだけど、そのことをどこまで父が話したのか、わたしには知る由もない。父の死は確実に迫っていて、でも死ぬなんて受け入れられないけれど、いつかは。財産分与で兄や姉と揉めたくないな。たとえば父が死んだら、父と母の過去の恋愛事情を知ることになるんだろう。それは真実だろうから、受け止められるだろうか。今から不安でいっぱい。
人の真相に迫るのが、幼少の頃から苦手だったし、詮索するのを◎としなかった。生きていく上で知らなくていいこともきっとあるって思うから避けてきた。たとえば、親しい友人に重い持病があっても、詳しく訊いてはいけない気がした。別の親友の結婚までの秘話でさえも、触れてはならないと思い込んだり。
でも、自分が≪なぜ自分であるのか?!≫という疑問からは逃げたくない。父、あるいは母から真実を聞かされる日はそう遠くない。兄と姉とも近い将来に再会するンだろう。それまでに≪自分は何者なのか?!≫の答えは出ていないだろうけれど、滑らかに会話できる術を身に付けた大人になっていたい。クソだな。
了
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