幸せでも死なない。

住人

2月末に25歳を迎えたわけだが、その年齢の響きに心が追いつくことなく、丸3ヶ月が経過してしまった。

ほら、25歳って、大人じゃないですか。
いや、まあ、20年の歳月を過ごした時点で社会は僕らを強制的に成人のカテゴリへと移すわけですけども、その対象者の多くが世間から要求される大人像を満たしきった存在ではないことを、当時ハタチ手前のハタコシはなんとなく理解していて。成り行きに任せて成人行きの列車に乗り込んだのでした。

大人像が何たるかはよくわからないし自分がそれを満たしているかもわからないしそもそも社会通念に囚われるのも嫌なのだけど、そんなことはさておき。25歳と言われると、流石に大人であることを自覚したほうがよさそうだ。

仕事でも自分より若い人に会う機会が増えた。SNSで同級生や歳の近い先輩の結婚や出産の知らせを目にする機会も増えた。昔は不味かったものが美味しく感じるようになってきたし、くしゃみのときの声もでかくなってきた。僕はもう、大人なのだろうな。

大人になってしまったことを、憂いてるわけじゃない。自分が大人であることを自覚させられるような年齢に至ったことに、ただただ驚いているんだ。

 

「死にたい」ばかりだった僕の人生は、大人になったいまも続いている。それも、至極、幸福の渦中にありながら。その事実に、一抹の違和感を覚えている。僕は幸せになったら、死ぬものだと思っていた。

 

 

12歳のとき、はじめて「死にたい」と思った。幸せだったからじゃない。ただ、シンプルに死にたかった。学校生活がうまくいかなくて、まだ成熟しきっていない言葉のナイフがグサグサと刺さる感覚があって、死にたかった。朝食どき、どこかの同世代が飛び降りたニュースを見て、不謹慎だとわかっていながら「うらやましい」と思っていた。

中学を卒業すると一旦落ち着いたものの、一度芽生えた希死念慮はしぶとく脳裏でその身を潜めていて、17歳でまた姿を現す。鏡に映る自分が誰だかわからなくなってしまうほどに、自分と自分が乖離していって、死にたくて死にたくて死にたくなくて、死にたかった。楽しいことだってあったはずだけど、思い返せば真っ先に、ベッドでのたうち回っていた日々が蘇る。

「こうあらねば」の強い自分も、「死にたい」の自分には勝てず、成績ガクンと落ち込んだり。学校行けなくなったり。進路も決めずに卒業して引きこもったり。会社すぐに辞めたり。その間にも家庭でそれはもう色々あったりして、いい意味ではカドがとれていった。そして、会社を辞めたあとに受験した大学に落ちたあたりで、自分に纏わりついた鎧が崩れる音がした。

 

もう、いいや。

 

それまでは、どこかで誰かの目を意識しながら道を選んできたけれど、何万回も「死にたい」って思ってきて、そのうち何度かは「死んだ」感覚の残る夜もある。それでも実際は生きているのだから、ここからはボーナスステージだと思うことにしよう。どうしようもなく死にたくなったらリタイアすればいいし、そのときが来るまでは、とりあえず生きてみよう。

ネガティブとポジティブというのは案外と表裏一体なもので、鬱々と考え続けてきたことが、諦めという名のポジティブに姿を変えた。それからというもの、あまり先のことは考えずに、直感のままに流れていくことにした。「死にたい」頃は無理に背伸びした未来を描いていたのかもしれない。22歳あたりから、徐々に「死にたい」がよぎる回数は減っていったし、自分が素直に開示できるようになって、心許せる友達も増えた。

いつまでも続くとは思っていなかった。だってこれは、ボーナスステージだから。大量のコインが並ぶ右端に配置された大きなメダルを獲ったら、楽しい時間もおしまい。先のことなんて全然考えられなくなっていたし、考える必要もないくらいに思っていた。今を充実して生きれているだけ、偉い。

 

そんなこんなで、気づいたら3年が経った。ボーナスステージは、まだ終わっていない。何度も、メダルを獲ったはずだ。いや、もらったはずだ。なのに、まだ、終わらない。

 

いま、僕はとても幸せで、嫌なことだってときどきあるけれど、基本的にいつだって幸せを感じられていて、でも、ずうっと悲観的に過ごしてきたのに、なんで、こんなに、幸せなのだろう。

自分を認めてあげられるようになってきた。人の言葉を素直に受け止められるようになってきた。「やってきてよかった」と思える瞬間を誰かがつくってくれる。自分を肯定してくれる人がたくさんいてくれる。愛していて、愛してくれる人がいる。「こんなに幸せなら死んでもいいや」って思いながら眠っても、また、明日がやってくる。

朝日が昇ってくるのが、夜が終わってしまうのが、あんなに怖かったのに、いま、当たり前のように、日々を迎えている。当たり前ではない、それはわかっているけれど、当たり前の顔をして、明日が自分を待ってくれている。

まだ、きっと、幸せに慣れていなくて、とても喜ばしいことなのだけど、素直に感受できていなくて、申し訳ない気持ちになるのだけれど、気づいてる。僕がいるのはボーナスステージなんかではなくて、たくさんの人に支えてもらいながらもちゃんと自分の足で歩んできた、僕の人生であることを。

 

僕は幸せになっても、死なないらしい。それに、また「死にたい」がやってきても、いまは死なないような気がしている。死んではいけないと思えている。思わせてもらっている。それが、たまらなく嬉しい。

 

いつまで続くかはわからないけれど、大人になった自分がこれからどんな道を歩むのか、大切な人たちと見てみたい。だから、これからもよろしくね。

 

 

ハタコシ

おどりばの大家です。深層の想いをともに捜しに。

プロフィール

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  1. ニルン

    読んでみて、ハタコシ君の意外な面を知れたってのが大きいです。
    自殺成功者を「うらやましい」とおもったり、ネガティブとポジティブは意外と近いという文章が死角から共感しました。
    私も疲れた時や、朝起きた時口癖のように「死にてー」と言ってますが、それとは近く違うのかな、でも自分で抱え込んで落ち込んでいるときは、死んで楽になりたいと思う経験はありますね。
    長くなりましたが、これからもおどりばの活躍期待してます。忙しくなって行けない時もあるかもね。

    • ハタコシハタコシ

      ニルンさん

      コメントありがとうございます。よく言われる話かもしれませんが、実体験として、「死にたい」と感じる瞬間、強く「生」を意識しているような気がします。おそらく人より「死にたい」多めの人生ですが、僕はそれだけ生きられているのだろうなあ、と、これはポジティブと呼ぶのでしょうか。笑

      いつもいどばたへご参加いただいてとても嬉しいです。こちらの更新に加えイベントも継続していきたいと思っていますので、ぜひご都合よければ遊びに来てください。

  2. 伊藤 翔太

    どこにコメントするべきか悩んだけれど、ここに書いてみます。

    僕が知らないハタコシの過去を知って少し驚きました。
    こういうことは発信するのにすごく勇気のいることだと思います。
    それでも共有してくれて本当にありがとう。

    これを読んで、何か引っかかるものがあったので、少しぼーっと考えていたら、点が線につながったように感じました。
    ハタコシがやろうとしていること、「おどりば」とは何なのか、などなど。

    そして、それらは僕がやろうとしていることとも無関係ではないということにも気づかせてもらいました。
    結局、僕らがやろうとしていることは根っこの部分は同じなのかもしれない、ということです。

    あまり今まで考えたことがなかったことであり、新しい発見でした。
    僕の中では最近あまり感じたことのない、いい意味での衝撃でした。

    でも僕の勘違いかもしれないので、詳しくはここには書きません。
    その代わり、次会う機会があったらまたそのときにいろいろ聞かせてください。

    おどりば、心から応援しています!