人生は剪定の連続だ

住人

私の「人生最後の夏休みの夏休み」も9月に突入。信州の暁と暮は、もう秋だ。それでもまだ、雑木は生長し続ける。

夏休み前半戦の思い出を振り返ってみる。私といえば、家業の手伝いでボーボーに伸びた庭や雑木の剪定ばかりしていた気がする。

何か語れる話は無いだろうか。…そういえば先日は、就活を終えた小学生来の友人2人が帰ってきているというので集まって、地元をフラつきながら語らった。

通信ケーブルでポケモンを交換していた、あの頃の記憶は12歳。あれから10年。高校もバラバラになったし、就職先だってバラバラだ。それでも、どこかに、10年前の残り香が漂っていた。

就活を終えた3人は、深夜のファミレスの「いやぁホント、お疲れ様。乾杯」を皮切りに、就活体験談で盛り上がる。初めての履歴書、面接、自己PR、メールの書き方、お祈りメール、内定通知。

「ホントに来年から社会人なんだな、俺たち」コロコロコミックを回し読みしていた頃の3人からは想像できない会話だった。このままでいたいよな、という言葉はあからさますぎて言えなかったけど、きっと3人が抱いていた。

あの頃から、俺たちは何が変わったのだろう。何を、得たのだろう。何を、失ったのだろう。そしてまた、こうやって語らえる日が来るのだろうか。

…そういえば先月は、「どうせあんたヒマなんだから連れてってやんなさいよ」と母に言われ、高校3年生の弟を志望大学のオープンキャンパスまで連れていってあげたこともあった。片道3時間の運転。

高校3年生と大学4年生。我々兄弟は、揃って「おどりば」にいる。久々に話す弟と高速の風を切る車内は、久々の会話ということも相まって、「おどりば」に蔓延する葛藤と鬱憤の焼却場と化した。

「本当にやりたいことなんて、まだ分からないよ。それでも、今は勉強するしかないんだ」と、つまらなそうに諦念と決意を滲ませる弟を見ると、高校3年生の頃の自分を思い出す。あぁ憎いほど、そっくりだ。

今の自分は、ちょっと違う。大学と違って、やりたいことのある就職先は運よく見つけた。でも、本当にやりたいことが「できる」かなんて分からない。ずっと働くことになるかもしれないし、半年後には辞めているかもしれない。

「兄ちゃんは、いつやりたいことを見つけたの」…そうだな、やりたいことか。そう見えてるだけで、見つかったふりをしているのかもしれないぞ。みんなそうなのかもな、という言葉は、喉につかえて舌から先に進まなかった。

あの頃から、兄ちゃんは何が変わったんだろうな。何を、得たんだろうな。何を、失ったんだろうな。そして、お前をどう導いてやればいいのかな。

振り返ってみれば、 「人生最後の夏休みの夏休み」 とやらは、なんだか言えなかったことが多かった。言えなかったのだろうか、言わなかったのだろうか。どちらにせよ、1つの道を選んでいたことだけは確かだ。

就職先だって、そうだ。 家業を継ぎ、庭師にならなかった自分。就活を経て、広告代理店で働くことになった自分。数多の選択肢の中で、選べる道は1つだった。それは、多くのものを得て、失って、を繰り返した上でそうなっていった。

人生は選定の連続だ。放っておけば雑木のように茂る、人間の感情。それは言葉になり、選択肢になり、実となり花となる。その過程で、数多に伸びる枝葉の中から選び定めた1つの姿として、今の私がある。

それが「整った」姿なのかは分からない。客観的に見たらボーボーかもしれないし、切ってはいけない枝を切っていたのかもしれないけれど、自分なりの美学を基準に「整えよう」としていたことだけは確かだった。

通ってきた選択肢の代わりに、通れなかった選択肢。1つを選ぶということは、それ以外の選択肢を切るということだ。振り返ってみれば、人生は「剪定」の連続だったんだ。そしてきっとこれからも、剪定の連続だ。

私たちは今も、自分自身を「剪定」している。自分の弱さ、強さ、哀しさ、楽しさ、痛さ、快さ、不確かさ、確かさ。取捨選択の末に、失って、残ったもの。それが「らしさ」になる。就活がまさに、そうだった。

就活では、製造業、旅行業、教育業…様々な業界の企業を見て回った。でも、最後は、その知見を踏まえて、その全ての業種に携わりたいと考えるようになり、それら全ての選択肢を切り、最終的には広告代理店を選んだ。就活を振り返ってみると、切った枝も無駄ではなかったんだなと思える。

切れたと思っていた「選択肢」も、どこかでひょっこりと顔を出す。それはまさしく「剪定」のメカニズムだ。切った枝の分だけ、そこに流れるはずだった養分が残っている枝に流れ、その結果、全体が美しく生長する。

ちなみに、この「剪定」の理論は、就活をしている最中に安曇野のリンゴ畑で花摘剪定をしていた時に発見したものだ。就活が終わった今も、選択肢を切ったり、他人のお願いを断るのが苦手な自分を救う考え方として、今尚この剪定理論は生き続けている。

選択肢だけじゃない。言葉になった「俺たち、もう来年から社会人かぁ」 も、弟の「 本当にやりたいことなんて、まだ分からないよ。それでも、今は勉強するしかないんだ」も、言葉にならなかった数多の言葉たちにも、どこかでまた合流するかもしれない。

10年後の夏、またあの3人で集まった時、弟とドライブをする時、私はどんな言葉を剪定しているのだろう。いつか生長して、合流するその日のために、私は私を剪定し続けていきたい。まだまだ青く、伸び続ける雑木。

さて、今日もまた、剪定だ。

山吹

ペンネーム。note→https://note.mu/fukujin 連絡先→yamaoide@gmail.com

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  1. オートオート

    山吹さん
    はじめてコメントします、オートです。

    >通ってきた選択肢の代わりに、通れなかった選択肢。1つを選ぶということは、それ以外の選択肢を切るということだ。
    振り返ってみれば、人生は「剪定」の連続だったんだ。そしてきっとこれからも、剪定の連続だ。
    >取捨選択の末に、失って、残ったもの。それが「らしさ」になる。

    >切れたと思っていた「選択肢」も、どこかでひょっこりと顔を出す。それはまさしく「剪定」のメカニズムだ。
    切った枝の分だけ、そこに流れるはずだった養分が残っている枝に流れ、その結果、全体が美しく生長する。

    剪定のメカニズムを書かれたこの箇所が、とても好きで読み返しています。記憶にとどめたくなる文章です。
    山吹さんの言葉の剪定もまた、記事全体をほかでもない山吹さんが書かれたものにされていると感じます。

    剪定のお話から、脳のシナプス刈り込みを連想しました。
    生まれたばかりの赤ちゃんの脳は、シナプスが超高密度。
    だけど発達するにつれ不要な結合が刈り込まれて、機能的な神経回路が完成する…
    すごく剪定と重なります。

    おどりばでどんな記事を書くかも、毎月取捨選択を迫られますよね。
    山吹さんの今後の剪定も楽しみにしています。

    • 山吹

      オートさん、初めまして。コメントありがとうございます。

      剪定された「見えない文章」の存在に気付くような方からコメントを頂けて幸いです。

      私は、放っておけばダラダラ文章を書いてしまうような人間なので
      そのように努力して、そのように感じていただいたこともまた幸いに感じます。

      シナプスの話もオートさんらしさが出ていて、参考になります。
      オートさんの記事も陰ながら楽しみにさせて頂いております。それでは。