忘れてはいけない「アウェイ」な感覚

住人

 

「アウェイ」とは、サッカーでは敵地のことをさすけれど、もうひとつ、「居心地の悪い場」とか「場違いな雰囲気」という、居づらさという意味でも使われる。

僕が市役所にいた頃、同期と数人の先輩後輩で野球チームが結成された。
僕は野球がクソの苦手である。
バッドの振り方がなんかめっちゃダサくて、もちろん球が当たらないし、守備の時も、だいたい外野なんだけれども、勢い弱めで転がってきたボールすらバウンドが読めなくて捕ることができない。
そんなもんだから、チームで出た労働組合の野球大会では、11人中2人のベンチメンバーのうちの一人だった。
奇をてらって「0番」の背番号でユニフォームを作ったが、文字通り僕の打席はなかった。
大会当日、もう一人のベンチの同期とマネージャーたちとともに、ときおり声援を送りながらボーッと試合を見ているときの、なんとなく寂しいあの感じを、今でも思い出す。

久しぶりの「アウェイ」な感覚だった。
集団のなかにいるはずなのに、集団のなかにいない感覚。
この感覚は、実はこれまでいろんなところで感じたことがある。

塩尻で地域活性化イベントに参加したとき、僕以外の周りの人たちが知り合い同士だらけで、「アウェイ」を感じた。
大学を休学して一個下と同じゼミに所属することになったときも「アウェイ」を感じていた。
海外の日本人宿でみんなが楽しそうに話している輪に入っていけなかったときも、小学生の頃のサッカークラブの選抜で一番下手だったときも、合コンで僕以外の男がモテモテだったときも、文化祭のダンス練習でクラスのイケイケ系の人たちだけが召集されてるのを机で見ているときも、「アウェイ」を感じた。

 
 

2013年〜2016年頃、僕は毎年お盆に、長野でサッカー大会を開いていた。
僕の知り合いや、そのまた知り合いを募って、中学校のグラウンドを貸しきってサッカーをした。
そのときに集まるのは中学高校の友人が多かったのだけど、なかには僕が個人的に知り合ったサッカー好きや、幼稚園の頃の友達などもいた。
当日は、当然中学高校の友人たちがメイン層になる。
みんな思い出話に花を咲かせながらワイワイと楽しんでいるが、僕以外に知り合いがいない人たちはどこか寂しげだ。
僕と話しているときは楽しそうだけれど、いつまでも話しているわけにもいかず、僕との会話が終わると一人でうつむきながらスパイクの紐を縛り直していた。

彼らにとってこの状況はきっと「アウェイ」だった。
集団のなかにいるのに、集団のなかにいない感覚だ。
むしろ、集団のなかにいるからこそ、よけいにアウェイを感じてしまっていたかもしれない。
僕は、みんなに楽しんでもらおうとこのサッカー大会を企画したのに、そううまくはいかないことを知った。

このとき初めて、「人が集まる」=「みんな楽しい」わけではないことを悟った。
どんな集団のなかにも、孤独を感じている人がいる可能性があるんだと思った。

 
 

「アウェイ」な感覚を忘れないようにしたい。
特に、自分が場を作る立場だったり、場のなかで経歴や知名度のような優位性があったりすればするほど、このアウェイの感覚を忘れてしまう。
すると、ちやほやされるなかで自分の居心地の良さにあぐらをかき始めてしまうんだ。

かなり昔、ヤフー知恵袋か何かで、
「本当にコミュ力がある人ってのは、クラスの目立たない人にも話しかけて、その人の面白さをさりげなくみんなの前で引き出せるような人だよ」
というような文章を見かけたことがある。

「居心地の良い」に目を向ける前に、誰かにとっての「居心地の悪い」に、できる限り寄り添える人になりたい。

soshi

1991年生まれ。長野市出身。 大学の専攻はジャーナリズム。休学し9カ国放浪後、地元市役所に入る。福祉部門に配属となり、障害者のソーシャルワークなどを行なう...

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