「嫌い」という気持ちと向き合う

住人

「与える」という言葉が苦手です。

「与える」と聞くと、なんだか役割が固定されてしまうような、それまでは対等だった間柄が上下の関係になるような、そんな違和感があります。

たまに「フリースクールを通じて、子どもたちに何を与えたいですか?」と問われることがあります。

確かに、わたしたちはフリースクールを通じて子どもたちに学習の機会を提供したり、同年代・異年齢問わずたくさんの人と交流できるようサポートしています。

しかし、それらすべては子どもたちが自ら選び取っていること。わたしたちができるのは、あくまで選択肢を増やすことでしかないのです。

だから、一方的に与えている気持ちはないし、同様の理由で「〜してあげる」のような表現も苦手です。

昔から「してあげるね」が口癖だった父

わたしが「与える」や「〜してあげる」のような言葉を嫌うのは、なにも最近のことではありません。幼稚園児の時から、先生の「貸してあげてね」が嫌いでした。

それを遡ってみると、たぶん父の口癖に行き当たります。

父は「してあげるね」とよく言う人でした。

掃除してあげるね。散歩してあげるね。後でやっておいてあげるね。

そこに潜む、細やかな上から目線。子どもの頃から嫌でしょうがなくて、「いらない」と突っぱねることも多くありました。

あれから10年経った今も、父はわたしに「これしてあげるね」と言うけれど。

嫌いな言葉を知ると、自分の大切にしたいことがわかる

「嫌いなものがそんなにあると、嫌な気持ちにならない?」

好き嫌いがハッキリしているタイプなせいか、知人からそう言われたことがあります。

しかしわたしは、「嫌い」という感情をネガティブには捉えていません。むしろ、大切なことを理解するヒントになり得ると思っています。

たとえばわたしが「与える」という言葉を嫌うのは、「対等でありたい」「一方通行に押し付けないようにしたい」という気持ちを持っているからです。

この、対等であること、押し付けないことは、わたしがとても大切にしている価値観のひとつ。この要素が無くなったら、きっとわたしは仕事も生活も人間関係もガラッと変わるでしょう。

嫌うあまり、その言葉を使う相手をひどく拒絶したり、価値観を断絶したりするのは避けたいな、と思います。

しかし同様に、嫌うことを避けるあまり、自分の大切にしたいものや自分を構成するものから目を背けないようにしたい、とも思うのです。

結局は、何を嫌っても、自分の生きたい生き方ができればいいじゃない、ってことです。

嫌うのを、怖がらなくていい

中学生の時、「嫌い」のようなネガティブな言葉を使うのが苦手でした。(いまも慎重にはなります。)

けれど、「嫌い」から目を背けても、その気持ちは消えません。むしろどんどん膨らんで、いつかは我慢できなくなってしまうかも。

だからこそ、無理をせずに「嫌い」も「好き」もまるっと自分として受け止めていきたいな、と思うのです。

たかれん

ゆるく、やさしく、やわらかく。そんな言葉が好きです。わたしらしくないことも、書いてみたい。

プロフィール

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