不器用なだけ?

住人

先日、「道草」という障がい者支援(福祉)を対象とした映画を見た。

ぼくにとって障がい者支援(福祉)は全くの畑違い。しかし、SNS上で、知り合いが「いい」といっていたから見てみようかなーなんていう軽い感覚で見てみた。




見て、真っ先思ったことは「これって教育だ」ってこと。


映画の中でこんな場面があった。

障がいを抱えた人と介助者さんが一緒に階段を上っている場面。

障がいを抱えた人が介助者さんに何度も「今度?」「今度?」と尋ねる。しかし、介助者さんは何も答えず階段を上っていく。そして今度はカメラマン(監督)に「今度?」といった。すると、カメラマン(監督)は「うん、また来るね」といった。そしたらもう「今度?」と言うことはなかった。


こんな場面もあった。


ある障がい抱えた人。やや暴力的でたくさんの人がいるところでほかの人を傷つけてしまったことがある。また、部屋の中でも毎日暴言や暴力がある。そのため普段は二階の部屋から出られない(出させてもらえない)。その人が別のNPOの介助者さんの助けを借りて外出した。その外出中の介助者さんとの会話で、すごくいい顔をしていた。そして帰ってくるとその夜、暴力はなかった。









話は変わって、教育の中ではこんな言葉がある。



「特別支援教育は教育の原点」




私自身は何度かその話を聞いたことがあり、特別支援学校を参観させてもらうたびに「あ、なるほど」と思うことはあった。

何かを我慢することを強制するのが「学校」なのではなく、その子の中にある「やりたい」に目を向け実現の方法を探ること、それが教育の原点なのだと。

しかし、その考えが今回の映画を見て広がった。



「すべての人とのかかわり、それらすべてが教育だ」と。




先の二つの場面。

「人と話したい」
「外に出たい」
「人とかかわりたい」

二人の人はもしかしたら、これらの感情をずっと抱えていたのかもしれない。

しかし、その気持ちを表に出して伝えるのがただ単にちょっと苦手だったのかもしれない。それを制限させられ、悶々とし、それを外に出す手段が「暴力」という手段しかもっていなかったのかもしれない。

そんな風に思った。






ぼくの場合。

ぼくはかなり「人とかかわりたい」という欲が強い人間なんだろうと思う。

一人で海外旅行も行っちゃうし、一人で飯を食べていてもなんら苦にならない。むしろその方が楽で、あってるとさえ思う。
しかしその一方、どこかで「人と繋がっていたい」という欲があるのだと思う。
そしてぼくもまたそれを表に出すのが苦手。
人を巻き込んでご飯に行ったり、飲みに行ったりしたい気持ちが何となくあっても「まあいっか」と思いこんでしまう。無意識的に。

だから「教育」という人とかかわる分野に魅力を感じ、仕事の場として選んでいるのかなー、とさえ思う。




「人とかかわりたい」その気持ちはだれしも持っているのかもしれない。
しかし、それを表に出すのが得意な人もいれば苦手な人もいる。当たり前。

そんなことに気づかせてもらった。

そして

人とかかわり、その人を少しでも「よい」と思う方向に進めること

それが教育だとしたら

すべての人とのかかわりもまた広い意味での「教育」なのだと思う。

そんな広い意味での「教育」に今後も携わっていきたいと思う。




あかっぱ

よく中学生に間違われます。「見た目はこども、中身もこども」な25歳です。

プロフィール

関連記事一覧

  1. この記事へのコメントはありません。