10秒感
素直になれないまま、ここまできてしまった。いつとなく、センシティブになる。
春はあけぼの。ようよう白くなるのは髪の毛だったりして、まだそんな歳じゃないけれど、あっという間に過ぎ去ってしまうんだろう、人生。
久しぶりに会った友達から、何も変わらないと言われる。そう言われればそうかもしれない。ある程度真面目で、でも馬鹿になれる。それでいて、それなりに空気を読めるものだから、自分を押し殺しては、特定の人にはしっかりとその心の内を見せる。そんなところは、幼稚園とかのころから、何ら変わっていないのかもしれない。自然体と、いわゆる’on’の時がなかなか違うから、それが原因で離れていく人もいれば、逆も然り、人の合う合わないなんて、紐解いていかなければわからないのだから、それも当たり前か。
やや、と言ってる間には、もはや大人だなんて言われる歳になったんだね。30も目前となりながら、僕はかつて10秒と少しかかって走る100m走に全てを費やしていたころより、むしろ退化してるようにも感じてきたなあ。
大人になると、なぜ、全ての時間を一つのことに費やすことに、【怖さ】が出るのだろう。いや、おそらく世に言う成功者たちは、そこに恐れを見出さず、無駄なことを考えずに猛進できているのだろう。しかし、臆病だからこそ返って怖さを乗り越えるために、さらに邁進することもある。むしろ、恐怖を乗り越えるためには、進むことしか、活路はないのかもしれない。僕は、その一歩が踏み出せずにいつもうだうだしてしまう。言葉尻では、尤もらしいことを言うくせに、ここぞと言うときに、地団駄を踏んでいる。
怖さ、が出るのは、おそらく子供の頃より、死を間近に感じることが多くなるからなのかもしれないとも思う。健康のため、というのは長生きのためであって、早く死なない、死にたくないからやること。子どもの頃は、もちろんそれを知りながらも、目の前の遊びや勉強、その他のことが重要だったから、そこまで考えなくてもよかった。だけれど、当たり前のことだけど、大人になればその分与えられた時間も少なくなっていって、後悔のないように、だなんて考えることも少なくなくなって、どんどんと現実味を帯びた”終わり”を意識するからこそ、より取捨選択をするようになる。会う人、仕事、趣味、その他諸々。誰だって至極当然で、馬鹿でもわかるようなことばかりだけれど、僕の目には、その当たり前から当たり前ではない無の境地がやってきてしまって、怖くなって、行動に移したいのに、失敗してしまったらどうしようだなんてこともやってきて、結局その場を動かないことが、多い気がする。
地球なんてものからしてみれば、人間の命なんて、たった10秒にも満たないのだろう。僕らが体験する80年は、何に例えることもできない、時間に縛られた空間であって、そこから抜け出すことはもう生まれたときから叶わない。
だからこそ、たった10秒でも、この世で体験することはきっとかけがえのないものにしないと、もったいないと思う。そして、その10秒で人生が変わったりもするんだから、とっても面白い。玄関を開けてただいま、靴を脱いだ、今日も疲れたなあ、これで10秒。あるいは、100メートルを走りきって、世界を制して、10秒。あるいは、商談の取り決めで、握手をして、拍手が起こって、10秒。ゲームであと少しでかてた相手にやられて、悔しい、10秒。
どんな一面だってある10秒。その積み重ねが人生となっていく。とっても、時間っていう概念は、興味深い。速さや重みや、その密度の濃さに違いはある、物事や人との関わり方によって、本当に景色が変わる、10秒。
どんな10秒を感じたか?
たった10秒で、自分の人生を覆しちまいたい。今夜だけは、なんて言ってるその10秒が、今の僕にとっては、愛おしいのかもしれない。その10秒のために、何年もかかる努力だって、今なら惜しまないよ、きっと。
10、という数字と、時に想いを馳せて。
いろいろある世の中だからこそ、
自分の10秒を、見つめ直してみたら、発見があって、幸せになれるのかもしれなかったり、なんだったり。そうやって、また今夜だけ、生き延びたいな。
10号室、t tatsu より。
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