刺激的な日々
蝉の声が鳴り響く夏の実家。
目の前で、夏休みに入ったばかりの甥っ子が夏休みの宿題をやっている。
「ママー、もういい?」
「わかった、一休みね」
「やったー」
甥っ子は意気揚々と、スイッチを立ち上げてスプラトゥーンをやっている。
「わあー」
「ダメー」
「そっちじゃないー」
今どきのゲームって、グラフィックがめちゃくちゃなきれいで、カメラの画角もあちこちに自由に移動して
自分が子どもの時にやっていた64のゲームとの違いに
「すげーなー」
と純粋に思う。
と同時に
「宿題よりゲームの方がそりゃ楽しいよねー」
とも思う。
かくゆう自分は
暑いし、暇だしで、スマホを見てはインスタやfacebookを意味もなく見てしまう。
「これって甥っ子と同じだな」
甥っ子はワクワクドキドキを味わうためにゲームをしている。
自分は「なんか変わったことでもないかな」って思いながらSNSを意味もなく眺めている。
話は変わって
昨日まで東京にいた。
友達と吞んで、エアビーで予約した部屋にみんなで泊まって、東京の慣れない満員電車に乗って、海外に行く友達を空港で見送る。
そして、ずっと誰かと話をしている。
普段の自分がいるのと違う世界を味わう生活
自分にない人の考え方をもらえる雑談・会話・対話・議論
そういうのを無意識的に求めている。
でも、それって誰しも同じなのかもしれない。
無数の情報に溢れ、多様性と個人の自由が当たり前な世の中
ネット、youtube、サブスク、ツイッター、インスタ、facebook
刺激は目の前にごろごろ転がっている。
そんな日々の中で勉強や読書といった手軽で簡単でない刺激よりも、よりも手軽でパッと刺激が手に入るものを求めようとするのは至極まっとうなことなのかもしれない。
でも
「刺激を得ること」
が目的になっていないか。
「刺激」
に自分の生活が支配されていないか。
来週から青年海外協力隊としてブラジルに行く。
海外に行くことが目的になっていないか。
なんのためにブラジルに行くのか。
ブラジルでもたくさんの刺激的な出来事、毎日が待っているだろう。
そんな毎日を過ごすことが目的になっていないか?
刺激に溢れた今の世の中
だからこそ
刺激に自分を支配される
刺激を求めることが目的の生活にならないようにしたい。
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