太陽十字からまるがはなれてできたわたしのまるまる

住人

漢字の十、で知られている十文字。かつては、周りに丸をかたどって、それを太陽十字として、人間の起源を太陽に見立てていた文化もあるようで、キリストのそれを思って見ても、十という標章が、人そのものを表す重要なものであることは自明だ。

でも、その太陽がもし何らかの条件で壊れてしまったとしたら、人はどうなってしまうのだろう。思いつきで書いて見た落書きで、手裏剣のような形を書いて見た。

どうやらこれも、Deutscher Orden (ドイツ騎士団)が使っていた紋章や、エルサレム十字の元となっているような文字のようだ。起源や由来は、深くまた調べてみるのも面白いな、と思ったけれど、太陽十字を離れてしまっても、そこにまた新たな意味を見出して、むしろそれをアイデンティティとして確立してしまうその文化の強さは、すごいと思う。

僕は、僕自身のアイデンティティすら危うく毎日を過ごしているというのに、その時代のその人々が作り出した潮流は、一つの軍隊を統率し、またときにその意識が横に逸れそうになったときに、パトロンとしての役割を果たすまでの力を持ち得る、その確固たる信念、何というか、うらやましい。そんな見窄らしいことばで飾りたいわけじゃないけれど、そういうしか他に見当たらない。

他にも、丸みを帯びた太陽から離れて、少し違ってみれば、それはまじ卍になってしまう。संस्कृत サンスクリット語なんて大学でやってみていたけれど、卍については詳しくやらなかったっけな、と、詳しい意味もよくわからないけれど、これについても宗教的な意味合いを昔からもっているようだ。つまり、やはり人を表している、ということになる。

「十」ってすごい。それ単体で数字やキリストを表すこともできるし、もとはといえば、人間は太陽からの起源で、ということで丸がついた十があったり、そこから少し離れてみて色々な意味が派生して行って、それぞれの文化を、団体を、ことばを、形成するまでになっている。

まるじゅうからまるが離れていって、独自の意味を持つようになるってこと、すごいな。元来の形からどう変わろうとも、そこに新しい意味がうまれていく。

10号室にいるから、こんなことをふと考えてみたんだけど、自分に置き換えてみたら、自分はどんな形になっているのだろう。元の形がまるじゅうだったとして、今の自分はどうなってるんだろう。少なくとも、その起源であるまるが離れていって、ななめ横にでも飛び出して、そのあとまた真ん中に戻ろうとしているような形だろうか。まっすぐな生き方をしてきたわけでもないから、そもそも十字がばってんになって、また真っ当に生き方をもどそうとして、卍のななめ版みたいになってるのだろうね。

でも、まるじゅうが必ずしも目指す形ではないとも思ってる。むしろそこから離れて、自分なりの覚悟で進んだ形になることこそが、本当の目標なんじゃないかなとも、思ったりする。そりゃあ人間の起源を辿れば、もしかしたら一つの何かに辿り着いてしまうかもしれないから、なんとも言えないんだけれど、でもそもそも、違う親から、違う家庭から、違う環境から生まれている時点で、まるじゅうの形の最初の長さや細さ、向き、そのものが違うような気もする。そこからどんどんオリジナリティがうまれていく。まるが離れないひともいるかもしれない。そのまま突っ切ってその先で交差してみたり、するのかもしれない。

太陽十字から離れてできた僕のまるまる。

僕の自信、僕のスタイル、僕の話し方、僕の弾き方、僕の生き方、僕のやり方、僕自身。これから、どんなまるまるになるのかな。それも、僕次第。

10号室より、t tatsuでした。 御機嫌よう。

t tatsu

山梨在住。あっちいったりこっちいったり、浮き沈みの激しい人生。音楽、本、映画やことばを好みます。多趣味多忙が代名詞。 …「あたりまえ」のことは、そうでもない...

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