おどりばのさきへ
気づけば、おどりばで綴ることが難しくなっていました。
もともと筆が極めて遅く初回からベリーハードではあったのだけど、4月の自粛期間を迎えた頃から、またひとつ難しくなっていきました。このあたりから仕事が忙しくなってしまい、心に余裕と余白が持てないことが書けない理由だとしばらく思ってきましたが、どうやら、そうでもないみたいで。
この おどりば の01号室から、何人もの住人が次の階段へと足を掛けるのを見送ってきました。運営側である僕にも例外なく、そのときが来たようです。
おどりば という空間を考えた頃から一貫して、おどりば という空間の意味や過ごし方については、各々の解釈に委ねる、としてきました。おどりば はあくまで、ここで過ごす人それぞれが人生のなかで差し掛かった踊り場を、ゆるやかにつないだ空間です。踊り場に在る理由もそれぞれであるからこそ、おどりば の捉え方についてもおまかせしています。
僕にとって おどりば とは『揺らぎの場』です。
揺らぎという行いは、ときに気づきを与えてくれるものであり、僕はこれを肯定的に捉えていますが、社会のなかで自分ひとりが迷いの渦にいると錯覚すれば、途端に不安に駆られるものです。
でも、実際はそうじゃない。すれ違う一人ひとりが、なにかしらの悩みや憂いを抱えながら日々を歩んでいる。忙しなく流れる時間のなかで、自身と向き合うために歩みを止めることを肯定的なものとするために、架空の共同空間でそれぞれが鏡と成りあい自分を見つめる場をつくりました。
おどりば が現在のかたちに至ったのが2019年6月。当時の文章からも『揺らぎ』が伝わってきます。
1年半を おどりば で過ごしてきたわけですが、読み返してみれば『死』や『若さ』『過去』をテーマに扱うことが多かったです。そのなかでの『揺らぎ』というのが、突然に形成された『家族』とのギャップでした。
まだまだ幼く、まま訪れる希死念慮に苛まれる自分が、とたんに親のような立場となったことに悩んできたように思います。(今でもだけど)十分に家族と向き合えているだろうか。(今でもだけど)自分ひとりで精一杯なのに、家族のために生きられているだろうか。そんな葛藤を抱えていました。
そうして迎えた自粛期間。仕事では社会情勢の変化への対応に追われ、同時に、子供の面倒を見ながらの在宅対応も相まって、突如現れたうねりに抗う日々でした。googleカレンダーに詰め込まれたカラフルなブロックに圧迫され、このあたりから『揺らぎ』を持つ余裕がなくなっていったように思います。おどりば でも、深く潜って掴んだような言葉ではなく、どこか俯瞰したもの書きになっていきました。
そこから約半年、10月。だいぶ環境にも慣れてきて、忙しいながらも余白を感じられるようにはなってきました。でも、書けないのです。書けなくなってしまった。おどりば で自分が書きたかったことが、書けなくなってきました。そして気づいたのです。ああ、僕はいま、揺らいでいないのだ、と。
「子供が産まれると、悩みが小さくなるよ」
そんな話を聞いたことがあります。生きる糧のようなものができて、それまで抱えてきた悩みの種が小さく感じる。そうしたことだと解釈しています。最近子どもが産まれた知人も、それまではtwitterで悩みを吐露するようなこともありましたが、今ではびっくりするくらいの溺愛っぷりで、生き生きしているように見えます。
僕の場合は、血のつながりがなければ、子の誕生にさえ立ち会っておらず、さらには先ほどのような迷いを抱えたままの保護者化でした。仕事も夜が遅いので、顔を合わせない日もありました。でも、この自粛期間を経て、家族と過ごす時間がぐっと増えたのです。子の成長をしっかりと感じられるようになりました。
悩みがない、なんてことは、全くなくて。これからの人生であったり、お金のことであったり。いまでも悩みはたくさんある。けども、家族とどう生きていくか、が頭の中心になっています。「死にたいと全く思わない」なんて言うと嘘だけど、家族とちゃんと歩んでいきたいと思えています。僕の『揺らぎ』の種は、気づけば小さくなっていました。
(これを権堂のブラジルで書いているあいだにも、おつかいの指令が続々と入っています。早く帰らねば)
揺らがなくなった事実に対しては、少し不安を感じています。揺らぎの意味が、わからなくなってしまうのではないか、と。おどりば をはじめ、色々なことをやらせてもらっていますが、どれも根っこには「悩みや迷いに肯定的であれるように」があります。自分が悩みを抱えていることで、周りの方々の悩みを受け入れられているのかな、とも思っていました。
でも、踊り場は、いま僕がいるここだけではなくて。またきっと、新しい踊り場に出会うことでしょう。生きていく流れのなかで、僕はいま登っていくときにあるのだと感じています。僕はこれからも悩んでいくだろうし、なによりも「わかる」ことよりも「わからない」ことのほうが健全であると感じるからこそ、おどりば の住人をはじめとする悩みを抱えた方々の想いを「わかりきることはないと理解したうえでわかろうと努める」ことが何より大切だな、と、いまは思えています。
そんなわけで、2021年3月の更新を以て おどりば の01号室を離れます。今すぐに出ようかととも思いましたが、まだこの場所で書けていないことがあります(それと若干の寂しさが理由)。居室を出たあとも、おどりば のエントランスにはいますので、これからもどうぞよろしくお願いします。
いつかの夜ハタコシさんとソーシさんと長野でお話させてもらったことを思い出します。
それがこうして「おどりば」という空間で実現して、ぼくもこの「おどりば」にかかわらせてもらって、たくさんの気づきをもらっています。
ハタコシさんの退室は寂しいですが、ぜひまた父となったハナコシさんのお話を直接聞かせてもらえるのを楽しみにしています!
って言ってもまだ3か月ありますね(^^♪