うっせぇよなあ

住人

先日テレビでもラジオでも耳にした「『うっせぇわ』を子どもに聞かせたくない問題」というものがある。子どもに悪影響があるという大人がいるらしい。「言葉遣いが悪くなる。」「反抗的になる。」「不愉快。」といった意見が多いようだ。それに対する大人の反論には、「尾崎豊なんてもっと暴れてたんだからかわいいものじゃない」「育ちの問題を曲のせいにしてるだけ」「50代でも共感できる」というものがあった。

なんだか興味深い問題だと思えた。教員を目指している身として教育的な観点でも考えてみたいし、この曲に対するただの今の自分としての観点からも考えてみたい。願望でしかないし今のところ自分の意見も着地点も見えていないが。

そもそも私は教員を目指していながら「教育」という概念がわからない。社会に適応して生きていくための知識と経験を得る場が学校だという面もありながら、勉学に専念する場だという面もある。その二つの面の両立は本当に可能なのか?私は大いに疑問である。しかも学校という社会の仕組みは独特だ。本当に学びたい子どもがいじめなどでその意欲を削がれてしまったり、学校ではうまく生きていた子どもが社会に出たら適応できなかったり、そんな事例は日本中にありふれているだろう。

ただの勉強不足であることは否めないが、勉強しようと思って本を読めば読むほど泥沼だ。「自分なりの教育観を持ちなさい」と言われるが、それはいったいなんなのだろう。学校とは何をする場なのか、考えれば考えるほどにわからない。

「うっせぇわ」に話を戻そう。私の身近な人はこの曲を厨二病(中二病とどっちがメジャーなのかわからない)くさいと笑っていた。YouTubeのコメント欄はいわゆる「イタい」もので溢れかえっている。とてもおもしろい。そう、厨二病がおもしろくて楽しいのは、身に覚えがある人がとても多いからだと思う。

自分は特別な存在だと思いたい。

自分が社会という枠に収まらなけばいけないらしいという現実への反発。

当たり前とされていることへの違和感。

.

.

ここまで書いてみて、なんてありきたりなテーマだろうと気づいた。このテーマなんてありとあらゆる媒体が姿形を変えて何千通りと扱ってきているだろう。問題になったのは流行ったから。それだけの理由だ。子どもが反抗しだすのは成長の過程で当たり前だし、わかりやすく強い言葉でキャッチーなメロディーだったら歌うだろう。それでも社会からはみ出さない人ははみ出さない。この曲を知らなくてもこういう精神を持ってはみ出していく人がいて、それはそれでいいじゃないか。上手に社会に収まる人がいないと生活は回らないし、はみ出していく人がいないと新しいものは生まれない。どちらも必要なのだ。だからとりあえず言葉遣いが悪かったら注意したらいいし、態度が悪かったら叱ったらいいと思う。それすらも正しいことなのかはわからないが、それ以上でも以下でもない。

この考え方は、教員としてはどうなのだろう。よくないのかもしれない。わからない。私は「先生」になりたいのではない。なりたい自分の姿に一番近づける職業が「先生」と呼ばれるものだった。誰のことも殺さない人を育てたい。できればそこに音楽があったらいい。それだけなのだ。それだけ、が、あまりにも遠いのだけれど。

.

いつも思う。自分の考えていることなんてもう誰かがとっくに考えていて、しかも大体は私の上位互換だ。私の思考なんて誰かの浅はかさを全てトレースしたただけのようで、本当に自分と向き合ってみたら、自分なんて全然特別じゃないということをはっきりと自覚するのだ。きつい。それでも私だから、私の言葉で話していたら、誰かの何かに響くのかもしれないと思う。それをもうっせぇと思う人もたくさんいるだろうけれど、「うっせぇわ」が流行ったのだってこの世の影響力の大体だってこの考え方と大差ない仕組みだと思う。

私の響かせた音が誰かの幸せに貢献できたらいいなと願って、私は本を読むし表現を探すし勉強を続けようと思うのだ。

.

.

.

届かないってわかるこんなうたごえで

叫ぶんだまだ終われないから

ゆまいさか

夢は、超すごい音楽の先生になることです。

プロフィール

関連記事一覧

  1. この記事へのコメントはありません。