深く関わること勿れ
「深く関わること、勿れ。」
私と深く関わると、ろくなことないよ。そう言って、あなたは私を遠ざけた。遠ざけたくないのに、遠ざけられた。
何故だろう。人は…少なくとも僕は、守ろうとするものが近くにあればあるほど、そのものを自分から遠ざけようとしてしまう。私は、あなたからそうされたように、私もあなたを、知らない間に、遠ざけていたのかもしれない。ごめんね。
青二才な僕は、右も左も、全てわかったような口調で、わかったような振る舞いで、物事を考える癖がある。そのおかげで、敵を作ることもしばしば。そして、その慢心なんていうのは、大きな社会に出れば、すぐさまぶち壊されるものであって、ちょっとしたバランスですぐに自分の神経を病んでしまうほどには、至って繊細にできている自分。そんな僕に、声をかけてきてくれる人も、少なからずいる。その誰しもが、私の“領域”に入ることができない。何故なら、私が強固なバリアを貼ってしまっているからだ。どれだけ心を許そうが、そこから先には入らせない、という領域がある。どうしようもない。どうしようもないで片付けて仕舞えば、なにも始まらない。そんなことは分かっているのに、どうしても明け渡すことができない。
自分を明け渡す、まで行かなくても、自分のことを分かってもらうためには、ぶち破らなければならない壁やポイントが存在すると考えている。でも、そこすらも、私は、人に許すことができない。では、果たして、私は孤独を好んで生きてきたのだろうか?それとも、死ぬ時はひとりであることを悟って、もうすでにその準備に入ることを良しとしているのだろうか?
ー答えは、NOだ。
本音を言えば、全てをあけすけに放ってしまいたい、自分の全てを打ち出して、開かれたものにしてしまいたい。そう心の奥では、思っている。でも、なぜできないのだろう。じぶんでも悩ましい。
私が“おどりば”にいる1つの理由も、そこにあるのかもしれない。
ここに書いてあることは、自分の本当の内面なのだろうか。そう自問自答するようなことも、ないことはないが、しかしそれでも、私のことを少しでも知ってもらうことで、それぞれがそれぞれの心に問うことが何かあること、それが1つ嬉しいと思っている以上、ここでの私も、私である。本当の私、という形は本当に多種多様存在していて、その全てを紐解いていくこともなかなか、私の中では難しいことだと思っている。でも、その多種多様さを、様々な形で住人たちが住人たちそれぞれのおどりば模様として彩っているのを観ていると、人の形がたくさんあってもいいんだということ、そもそも、そこに許容や拒否などの概念はないんだということ、そんなことを、思ったりもするもの。毎月のこの時間に、自分が自分に寄せる思いも変われば、そこに突き刺さる住人模様も違って、またそれを踏まえて私を生きていくこの毎日が、なんだかんだ、尊いと、最近はより色濃く、思えるようになった気がする。
季節が変われば、咲く花も変わる。場所も変われば、気持ちやスタイルも変わる。そうやってじぶんは変わっていくように思えるけれど、きっとその根幹にある私というものも、色々な形を持っているのだろう、ということに気がつけたから、だから、相手に心をさらけ出すことができる、という風には、直結はしないのだけれど、
でも、
あなたに言われた、その言葉を、私はしっかり受け止めようと、今では思える。
ただの拒否じゃ、なかったんだね。
私には、わかります。分かったそぶりじゃないよ
ここにいて、そう感じることができたから。でも、これからは少しずつでも、自分を受け入れることで、あなたにもバリアを貼る必要がないくらいには、私を、受け入れていこうと思う。自分を受け入れることができないから、相手のことを受け入れることができなかったこと、遠ざけているのではなく、自分を認めていなかったことにも、気づけたから、もうこれからはきっと、大丈夫だと思うよ。
…もう、勿れだなんて言葉、使いたくないから。
10号室 t tatsu より。
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