精神科病棟の日々のような狂気に
11年前の夏、精神科病棟に入院した。気の狂った人はいなかった。ただ個性のクセが強めの人が集まっていた。一日中、座禅を組んで念仏を唱えている人、口喧嘩ばっかり吹っ掛けてくる人、往復しかできない直線の廊下をぶらぶらほっつき歩く人、クスリを拒否して看護師さんとの格闘騒ぎを何度も起こす人。わたしもその一人だったか。でも「なかがわさんがなぜ入院しているのかわからない」と看護師さんに言われたくらいだから、異常。自殺未遂して主治医に入院勧告をされて、その病院に半強制的にぶち込まれた。当時、幼児だったむすめは何も知らず、見舞いに来ては私を見つけるなり「ぱぱ~」と走って来た勢いのまま抱きついた(涙)。妻はと言えば、疲れ切っていて、どこか迷惑そうでもあった。決して責めては。逆の立場だったらわたしはひどい仕打ちをしていたに間違いはないので、何も言えない。ごめんなさい。
朝、五時に目が覚めてしまう日々が続いた。真っ暗な休憩スペースで、時間が過ぎるのを見ていた。本当に時間が見えていた。頭がおかしかったのかもだが、時計は進んでいたし、チクタクと鳴る世界を聞き逃さなかった。多分、わたしは時間という罠に見事に両脚を捕まえられていたんだと思う、あの夏、一番静かな精神科病棟で。心悪しきわたしだった!
七時になると病棟に四方囲まれた中庭への鍵が開いて、でも、夏なのに朝は寒くて、だけど、解放された空間はそこにしかないから、出ずにはいられなかった。何かをしたわけではない。100円の自販機でコーラを買うのが唯一の楽しみで。一週間の小遣いは500円と決まっていたから、無駄打ちはできなかった。大切に大切に、しゅわしゅわの一粒もこぼさないように飲んだ。喉が晴れやかに痛んだ。
八時、飯。一二時、飯。一八時、飯。それ以外はただただフリータイム。自由という名の不自由に襲われる時間。時間の囚われの身であることを痛切するしかなかった実感。中庭に出ても蝉しぐれは鳴らない。プラスティックのバットで野球をしたり、中庭をひたすらぐるぐるまわったり、ベンチで執筆に執拗に励んだり。病室にいても良かったのだが、20畳ほどの和室に6人くらいで雑魚寝生活していたから、プライベートなんてまったくなかった。そんな掃き溜めにいたくはなくて、四六時中、唯一の屋外に。夏の紫外線に目がやられるくらい、ずっと。
1階が男性の病棟で、2階が女性の病棟であった。当然自由には行き来できない。気に入った女の子はいなかった。でも、中庭での異性との交遊は楽しかった。男子校じゃなくて良かった、共学で。ある女性患者さんに散歩に誘われ、中庭を周回している途中で突然立ち止まられ、間髪入れずに「退院したらセックスしてください!」と絶叫されたのにはビビった。唖然とした。爆笑した。彼女は独房行きの常連で、複数の看護師さんに羽交い絞めにされ、≪保護室≫と名付けられた隔離スペースに牽きずられて行くのを、耳撃していたから、偏見があった。「やめてぃぇぃぇー!!!」という叫びをよく聞いていたのだ。そんなふうに思っていて、申し訳ありません。この≪おどりば≫でも、わたしは狂人じみているから、誰からもコンタクトを取られない。人見知りなのでありがたいことだが、因果応報だな。
中庭と飯以外の楽しみと言えば、週2回、各15分の入浴。脱衣所では、女性の看護師さんの前で全裸になり、整列して体重測定を同時にさせられた。はじめは恥ずかしかったが、何回か経験したら羞恥心はなくなった。人間、慣れればなんでもできるんだよ。自分で限界を決めるな。他人と比べるな。誰かが見ているから、手を抜かずにがんばれば、救いの手を差し伸べてくれる人が出てくるはず。関係なさそうだが、今思うとそんなことを、あの入~浴タイムズから学んだっぽい。
あと、待ち遠しかったのは面会な。家族との週1回の面会。何を話したのか全然覚えていない。何をしてもらったかも思い出せない。でも妻に感謝した。むすめを抱き締めた。それだけは、はっきり。「すてきなご家族がいるのだから、早くここから出なくちゃね!」と看護師さんにも言われた。一度、お芝居を一緒にやっていた女の子がお見舞いに来てくれた時には誤解されて、看護師さんに冷たい目で見られたなー。好きだったよ、なんつて。
楽しいことなんて、まったくなかった。囚人のような暮らしで、ひたすら時間を浪費しただけ。だけれど、病気の猛威を封じ込めるためには、絶対に必要だった夏の日の午後たち。何度も浴びた太陽光に病んだ魂は溶けて。じゅわじゅわって。
白鵬が連勝街道をぶっ飛ばしていた大相撲。チリで起きた落盤事故で33人が閉じ込められた大事故。そんな世間からも引き剝がされて、わたしが生き延びた、遠い夏。もう二度と入院などしたくないのは言うまでもないが、なぜか懐かしく思うことはやめられない。
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