さっきの先を、追い求めてる

住人

 僕は、「さっきの先」を、追い求め続けている。

いつでも、そう、いつもそう。どんな時でも、先を追い求め続けている。いつも、いつの自分も、1秒前の自分より、前進していたいと思ってやまない。気がついたら、そんなに時間が立っていたんだ、とかそんなこともよくあって。時が経つのを忘れている時ほど、きっと前に進めているのかもしれない。

でも、そういう時に限って、ふと目を閉じて眠りにつくときに、見えてもしまう、鮮明にその終わりの果てが。

一緒の感覚を味わう人は、いるだろうか。漫然とその未知を恐れるのではなくて、ありありとイメージができてしまう

だから、そんな日の夜は、前に進みたいのに明けてほしくないだなんて、夜に願いをこめてまた、意識を失う。さっきの先を追い求めすぎる日々には、必ず疲れが付き纏ってしまう。物事に集中している時にはそんなこと微塵も感じないのに、終わった後に痛みや感覚はバッと戻ってくる感覚。この限界のラインを超えた時には、ツイッターでニュースに再度挙げられていた、某キャスターの過労死なんて問題にもなってくるのだろう。

真面目な人ほど精神に囚われたりするのは、それに入り込んで人の気持ちがよくわかってしまうからなのかなあ、とか思いつつ、私がそんな生き方以外はできないから、真摯に何もかもを受け止めては、一喜一憂しながら、またそのさっきを追い抜いて私を、更新し続けるのです。

 追い抜かれた私は、追い抜いた私のことをさらに追い越そうとする。そうやって、過去の自分がまた未来の自分に追いつこうとして、その先にまたどんどんと新たな目標が出てきて、そこには自分の偶像だらけの気持ち悪い空間が出来上がってしまって、時にバックスペースを組み込んでも、結局今という時間が戻ることはなくて、そういう意味ではよくいう、「過去に囚われた人」なんてのはいないのかもしれない。たとえ精神的にそこに閉じ込められていても、物理的にそこにもどるすべが今はないのだから、悲観的になる必要もないのかもしれない、だなんて思えるようになったのは本当にここさいきんの話。まさに、囚われた人だったのが自分だったから。でも、それは必ずしも後ろ向きになることじゃなくて、心の奥底では今の自分をどうにかしなきゃ、っていう思いのもと、勝手に本能的に、そのころの栄光から何かを得ようとして、自分が行っている防衛と全前進行動なんだと思うと、終わりへのカウントダウンを隠喩して教える人間のそれぞれに備わった本能の行動に感嘆を覚えるくらい。

そんなこんなで、また今日も終わっていく。

今日のあなたは、昨日のあなたであってそうではない

私は私、でも今日と昨日と明日の自分はまたどこか変わっていて、でも自分では自覚できてない面もあって

意識として、さっきの先を求め続けて、本能的に自動的に、また細胞は生まれ変わって殺しての繰り返しで、また生は続く。

とある人の話だと、その先への連鎖は魂になっても行われるようだから、人はきっと先に進むために生まれてきたんだと思う

2度というチャンスを与えられないのなら、それはきっとそういういみだろう 

そして、それってすごく、まえむきじゃない?と、思うこともできそう。そうしたら、少し後悔も、懺悔も、その悔いを、未来が受け止められるような気がする。希望が少しでも、明日を包み込んでくれるような気がする。そんなこと考えたら、やっぱりさっきよりも、先へ進みたくなるんだよ、私。だから、

僕は、「さっきの先」を、追い求め続けている。

…追い求め続けていたい。追い越しても、追い越されても、またその先を見据えて

生きていこう。元気でいて、らららと鼻唄でも奏でながら。その集大成が、ありのままの、あなた、私。だから

安心しよう、自分を信じて。

10号室 t tatsuより 全ての人への愛を込めて、自分を信じる心を込めて

t tatsu

山梨在住。あっちいったりこっちいったり、浮き沈みの激しい人生。音楽、本、映画やことばを好みます。多趣味多忙が代名詞。 …「あたりまえ」のことは、そうでもない...

プロフィール

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