表に現れるもの

住人

表現 ということと、想い ということを、最近よく考えていた。

万人に受け入れられやすく、馴染みやすい表現をするのは簡単だ。それをAだとすると、万人には受け入れられないかもしれないけど本人は納得する表現であるBも存在する。はたまた、表現Cも存在し得る。自分は世界観というか奥行きが感じられる人に魅力を感じるし、Bの表現ができる人と出会うと素敵だなぁと思う。

自分がやっているAの表現を褒めてくれる人に出会う機会が多くなった。それはとても嬉しいことで、伝えてくれた感想を反芻するように味わった。お風呂場とかで思い返したりした。鏡に映る自分の口角は斜め上に上がっていた。一言で言うと、いい気分になっていた。

しかし、最近、Aの表現をやり続けることに、違和感を感じてしまった。日々のSNSの使い方を振り返ると、Aばかりやっているような気がした。それって理解され承認され迎合されるためだけにやっているのではないか? それって、なんというか、浅いんじゃないか? という感情が湧いてしまったのだ。

月に一度書いている、ここでの文章は、自分の気持ちや考えを整理するために書いているのであり、万人に受け入れられるために書いているわけではない。自分のために書いている。つまり、Bの表現。普段いろいろ考えているけど表に出すことが苦手な僕にとっては、落ち着いて整理する時間が必要であり、ここは大事な場所だ。

話をまとめると、Bの表現を大事にしたいのに、Aの表現ばかりやっている自分に、違和感を感じた。



このことについては、今も考え続けている。まとまっていない。まとまってはいないが、現時点で考えていることをいくつか書き残しておこうと思う。

まず、表現Aをやっているからといって、表現Aだけをやる人ではない、ということ。お笑い芸人が例として解りやすいだろう。面白いことを日々考え、ライブや番組で表現しているけど、普段はふつうに生活していて、いろんな考えや悩みがある、他となんら変わりない人のはずだ。面白い表現をして周囲を楽しませたい、という気持ちもあれば、大事にしている家族を守っていきたい、という気持ちもあるだろうし、ステージ上では明るいけど、降りたら暗い人もいるだろう。お笑い芸人の中には、映画制作あるいは小説執筆など、お笑い以外の表現(=表現B)をやる人もいる。

つぎに、表現Bができる人も、表現Aを大事にしている、ということ。僕が長野にいるとき、絵や映像など様々な作品をつくっている人と多く知り合った。自己の世界観を大事にしながらも、お店のロゴマークを制作したり、人に解ってもらうための表現も大事にしていた。表現Aも表現Bも、楽しんでやっていた。楽しんで の部分が、表現を続ける秘訣なのかもしれない。

白か黒か。ではないのだろうな。と思う。
混ざり合った色だってある。
表現AとBの中間もあるだろう。



表現というものは本当に難しいものだな と思う。たぶん、答えはない。それでも、納得するところには落ち着かせたい。

表現Aをやる自分に違和感を感じたが、やっている時間は楽しいし、それも確実に自分の一部ではある。理解され承認され迎合されるためだけに表現Aをやっているのではないか?と考えたことがあったけど、一番は、自分が楽しいから やっていたんだ。表現AもBも、楽しみながら やっていけたらいいな と思う。


最後に、想い の部分について書き残しておきたい。

表現には、想いが透けて見える。それが「ただただ承認されたい」なのか「自分の内から出てきたものが抑えきれないのでとりあえず残しておこう」なのか「忘れないための書き置き」あるいは「自己の異質性を認めてくれる人がいて欲しい」なのか、それは表現をする人によって異なる。表現する人から透けて見える想いが、ピュアなものだったらいいな、と僕は思っている。


まとまらないけど、今日はこんなところで。

ワタナベ

新潟県上越市生まれ。THEYELLOWMONKEYが好きです。

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