人生は選択の連続

住人

「人生は選択の連続」


どこかで聞いたこの言葉

確かにな、と思う。







今日は暑い。

A:家に帰る前にコンビニで飲み物を買う
B:我慢して家に帰ってから冷えた麦茶を飲む

ピコン

Aを選択



A’:お茶を買う
B’:炭酸を買う

ピコン

A’を選択




レジで会計 124円

A’’:小銭を探すのが面倒くさいから500円を出す
B’’:財布の中の小銭が増えるのが嫌だから524円を出す

ピコン

B’’を選択






毎日は「選択の連続」。

それは自分で「選択」しているはずなのに、見えない力に導かれているような感覚に陥ることが度々ある。


ちょうど今日がそんな日だった。












昨日、友達と呑んでゲストハウスに泊まって、チェックアウトをして車を取りに行く。


でも、まだお互い次の予定まで時間があった。


「せっかくだし散歩するか」







⇒選択①予定までの時間で散歩する











 

どちらかともなく、目的もなく、ただ久しぶりに大学を見たい、と思い、大学まで散歩することに








⇒選択②行先は大学











その道中、これまたどちらからともなく、大通りを行くのではなく、何となく近道だろうと思われる路地を通っていく





「右と左どっちいく?」


「右」

「おー、やっぱ、道続いてる。大学まで行けそうじゃん」










⇒選択③右の道を選択










学生時代、大学の近くなのにお互い一度も通たことのなかった路地を進む。




そして、大学を目前にした路地


一人のおじさんが、犬の散歩を終えたのであろう、家の前で座って犬を撫でている


その隣を近所のおばあさんが、世間話をしながら通り過ぎていく


その様子を友達と二人で横目に見ながら、通り過ぎる








???







僕のセンサーが引っ掛かった





「あのおじさん、どっかで見たことあるぞ」










「あ、もしかして・・・」














戻ってみると誰もいない。




まあいっか。








ガラガラガラ




玄関の扉が開く。




おばさんが出てくる。










「あのー、すみません。もし違ってたら申し訳ないのですが、こちらのお宅、松澤さんのお宅でしょうか?旦那様、加茂川で働いませんでしたか?実は、自分、その時、バイトでお世話になったんです。」

















「げんさーん」




出てきたのは「松澤さん」







僕が学生の時、仕出しのバイトでお世話になった板前さんだ。


まさかの5年ぶりの再会。




向こうも覚えていてくれていた。

話ははずみ、松澤さんの近況(今年70歳になるらしい)、自分がいなくなったあとのバイト先のこと、松澤さんのこれまでのこと、5年ぶりとは思えないほど、むしろバイトの時はできない話をした。楽しい時間だった。




















さあ、ここまでのことを振り返ろう。



もし、僕と友人が空いた時間を散歩しようと選択しなかったら


もし、行先を大学にしなかったら


もし、あの道を右ではなく左に進んでいたら




もし、もし、もし・・・






そんな幾重にも重なる

「もし」

の積み重ねの上に「松澤さんとの再会」があった。






「人生は選択の連続である」



どの道を選択するかは自分次第。




しかし、


「必然」

「運命」

「縁」


と言う名の糸で、自分の選択は決まっていたのかもしれない。


はたまた、別の「選択」をした先にももしかしたら別の「何か」が待っていたのかもしれない。




人生の選択は、路地裏の道のように、無数の道が交差し、つながり、どこかにつながっている。




人生とは選択の連続でもあり、偶然の連続でもあり、必然の連続なのかもしれない。



これがあるから人生は楽しい。

あかっぱ

よく中学生に間違われます。「見た目はこども、中身もこども」な25歳です。

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