選択物の洗濯肢
どちらを洗濯しよう?
今思えば、いつもそのような選択の岐路に立つことが多かった気がする。
中学の頃、受験する高校をどこにするのか、オリジナリティと自分の行きたいを選択する際。
大学受験で、本当にやりたいことや興味のあることは何か考えた時、そしてそれに付随して浪人するかどうか考えた時。就職するとき。それぞれの、いわゆる王道パターンに選択肢がたくさんあるときに、私がいつもその選択肢を、洗濯していた。
綺麗にするため、ではなくて、どちらかというと、よりその選択肢を見やすくするため、考えやすくするために。
洗濯して、その後に残った水に映る私の顔を見て、選択することもあれば、そのまま勢いで突っ走ってしまったこともあった。どの決断にも、後悔はなかった。けれど、大学を出てからの選択は、たくさんの後悔があって、またその後悔は後からやってくるもので、その当事者であり続けるところでは、世界はそのもの全てだと思いこんでしまっていて、たくさんの手すりや優しい言葉たちが、その横をすり抜けていくのをただ見ることしかできなかったばかりか、むしろそれはお節介だと言わないばかりに、自らの道を誤った形で信じ込んでしまっていたように思える。
それからというもの、全く持って、自分に自信が持てなくなってしまった。
また、あるいは、それを打ち砕くような他責が起こる、と考えてしまって、結果それを引きつけてしまったようなものなのかもしれない。それは、考えすぎかもしれないけれど、その時、洗濯物入れに、自分の選択物は何も入っていなかった。だから、精査することもできず、またその時の勢いでたくさんの我慢や努力が水の泡になったこともあれば、その先でまたしっかりと洗濯しようと考えて、お得意のイバラの道コースを選ぶ自分に、楽観をおぼえることもあった。
30歳になって、夏。初めての30代の夏に、大きな岐路を迎える。いろいろな状況が、私を、しっかりとやってね、モードへと追い込む。追い込まれないとやれない私にとって、願ってもないチャンスの数々。そうやって思わないとやっていられない。何故なら、周りの青い芝はもう、青々と広大な幹を広げて、どんどんと見えないところまで行ってしまっているからだ。思えば、最初に大学を諦めなかった時、そして陸上で結果を残せなかった時、僕がやるべきことは、私のペースを着実に壊さず、私が私であることに焦りを感じないようにする、ということを悟っていた。人一倍努力しなければ何事も結果を出せない私が、人並みの状態で何をもなし得ない。それを、忘れていたことを、わかっていながらスルーしていた自分に喝を入れるように、時間と出来事が私を起こしてくれた。長い眠りについていたから、着ていたものは汚くなっていて、白い生地が黒くなるほどには、幸せとはなんだろう、を忘れていて、でもその何処かで、またもう一つの自分らしさである、争う精神も死んでいないことにも、改めて気がつくことができたような気がする。
もはや
人生は、洗濯の数々でできている
なんて名言じみてもいいのかもしれない。
いつも、そんなことをなんとなく考えながら生きていたけれど、自分がやりたいことや携わりたいことに
必ず他人が関わり合うことにまた難しいことを感じてしまう日々もあるけれど、おかげさまでいろいろなことができる。
いろいろなことをしたいと思える。そうやって、今猛スピードで進んでいる時代を私も生きているんだなと、またコーヒーを啜りながら思ったりもする。
同じ、もしくは後に生まれてきた人がさらに立派にやっているのを見るととても悔しいし、とても焦りもする。だから、努力は欠かせない。だけれど、そこにマイナスの感情が湧いてくることもある。不安になる時も、そんな時も。むしろ、そればかり。成長すればその分だけ、また階段がやってきて、
おどりば
で、僕はまた、選択肢を洗濯し続けている。
毎日、毎日、1つでも前に進みたい。1つでも、できるようになりたい。1つでも、共に進みたい。1つでも、助けになりたい。1つでも、強くなりたい。何回でも、私を生まれ変わらせて、新しい私になりたい。
そんな毎日を、過ごしています。
I pray for peace
I struggle to go for my own
一秒が、一日が、一週間が、全ての人にとって
素晴らしいものになりますように。
10号室 t tatsu より
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